岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【孤児との出会い】石井十次 その二

2005-02-07 17:20:33 | 石井十次
甲種岡山県医学校に入学した十次は、代診に訪れていた
岡山市上阿知の診療所で、女性の遍路から男子を預かる。
育てることのできない子どもを親から引きとったのである。
その噂を聞いて、引き取りは瞬く間に3人になった。
その3人を連れて、岡山市門田屋敷の三友寺に寄宿し、
「孤児教育会」をつくった。
これが岡山孤児院の始まりである。

私の旅はまずこの三友寺を訪ねることからはじまった。
山門だけがかっての風情を残すこの寺は、ほとんどの
スペースは保育所になっていた。
十次の足跡らしいといえる。

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ここで先走ることになるが、十次は一代限りの、
社会事業家である。この社会事業家ということばを
使うことが正しいのかどうかもわからないが、
他にことばが浮かばない。
彼は、少し例えが大げさかもしれないが、今映画に
なっている「アレキサンダー」の大王と似ている
ところがある。
アレキサンダーが一代限りの大王であるように、
十次の岡山孤児院も、彼が創り、彼の死とともに
一代限りで終わり、伝説になったのである。
 後を託された大原孫三郎が、これは十次一代の
事業であり、私は後処理担当だといい、実際に
そのように処理をした。
それゆえ、岡山には彼の遺志を受け継いだ組織は
ない。
私が訪ねたのは、少しばかりの記念物のためでは
なく、実際に岡山孤児院が、どこにどのように
存在していたのか、当時の地図と写真を頼りに
同定するためであった。路地の片隅に彼を探す
旅ともいえるかもしれない。
そう思わざるをえないほど、大してみるものは
ない。

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話を1987年(明治20)に戻すと、三友寺に
「孤児教育会」を設立した十次は、近くの京橋(橋の名)
の下にいる物乞い(今や死語)20数人に、三友寺の
軒下で文字を教え始めた。
「襤褸(ぼろ)軒の下学校」と名付けた。
1889年(明治22)、医学生の十次は、医学を捨て、
孤児教育に生きることを決めた。十次24歳。
妻の品子は身重だったのかもしれない(翌年長女出産)。
彼女は、庭で医学書を燃やす十次を、涙を流して
見ていたという。そうだろう。どうして生きていけば
よいか、途方にくれたはずである。

彼は、家族や孤児を抱え、どのように家計を維持して
いったのか。収容する孤児の数は増えるばかりである。
89年9月には60人になっていたらしい。
1年たっていない!
まったく無制限に収容するのである。
これが彼の代名詞である無制限収容主義ということに
なる。
十次には資産はない。頼るのは寄付だけであった。
彼は成算があったのか。
「成算などない神への信念だけだ」といいそうだ。

これから書いていくことになる十次の超人的活動は、
彼の桁外れの人間性と、神からミッションとの複合と
しか考えられない。
傍証として、同時期にプロテスタントの社会事業家
として活動をはじめた留岡幸助と山室軍平をあげることが
できる。
同じように使命感を持ちながらも、留岡は児童自立支援
施設の礎をつくり、山室が日本救世軍をつくった。
社会事業のかたちが違ったのは、彼らの人間性=個性と
いえるのでないだろうか。
留岡幸助と山室軍平はともに岡山県人であり、同士意識も
強かったのである。この2人に十次を加えて、「時代と
宗教を語る」こともぜひ挑戦してみたいと思う。

十次の考えを深く知るためには彼の日記を読むことだろう。
岡山県立図書館にあるのでいずれまた訪れたい。

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