岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

妙林寺と妙善寺  岡山の風景で知っておかなくてはならないこと。

2014-06-08 10:43:38 | 岡山

前回、岡山は日蓮宗の信者が多いと書きました。
このようなことは、全国の皆さんには、「それがどうした」という話でしょう。
確かに、岡山の宗派構成を知ることにたいした意味があるとは思えません。
しかし、以下の事実は、知っておくべきことではないでしょうか。

江戸時代に、幕府から禁制とされた宗教といえば、もちろんキリスト教ですね。
NHK大河ドラマの黒田官兵衛も信者でした。
江戸幕府となって鎖国、禁制、厳しく弾圧されました。

ご存知の方も多いとは思いますが、禁制になった宗教は他にもありました。
日蓮宗の不受不施派です。
岡山の日蓮宗徒にはこの不受不施派の人が多かったのです。
不授布施派はなぜ禁制になったか、wikiより引用します。

1595年(文禄4年)豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会のため、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出仕を命じたことに始まる。この時、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂し、妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺を去った。
1599年(慶長5年)受布施派に訴えられ、徳川家康は大坂城で日奥と日紹(受布施派)を対論(大阪対論)させた。権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした。


禁制というのは、時の権力者が、神や仏を自らより上位に置く宗教を禁ずることともいえます。
反権力ということになります。
現在だと、反権力者でも法に違反しない限り、拘束されることはないことになっています。
戦前はすでに怪しいのですが、江戸時代になると命さえ危なくなります。

実は、岡山の妙善寺は、不受不施派です。地図の上部赤丸です。
禁制だった宗派の寺がなぜ、市内に残っているのでしょうか。
私はこの妙善寺の朝の鐘や除夜の鐘を聴いて育ちましたよ。

妙善寺は、どのような歴史を辿ったのか。ホームページからの引用です。

妙善寺も備前法華の拠点として備前藩主池田家の厳しい迫害と弾圧を受けた。やがて、寺は無住となり、宝永5(1708)年には一切の堂宇を廃棄する有様であった。
しかし、住職や信者は、信念を崩さず、強い精神で信仰を守りとおし、明治9(1876)年4月、釈日正上人の請願により日蓮宗不受不施派の再興を果たし、妙覚寺(岡山市御津金川)を本山とし、翌明治10(1877)年に妙善寺の故地に津島教会所が設けられた。
明治30(1897)年には、再び妙善寺と名乗ることが許され、旧地に客殿、庫裡、書院などを再建していき、大正14(1925)年に本堂が3年がかりで再建された。この時「妙善寺本堂再建落慶由来」が作成されている。平成17(2005)年8月には、80年ぶりに本堂内外の大修理が完成、その開堂供養も行われた。


岡山の地に信仰を守り通した人々がいたのです。
このようなことは知っておかなくてはなりません。
自分自身の問題でもあるのです。

というのは、弾圧した備前藩主池田家は、鳥取から岡山に国替で移住してきたのですが、一緒に移住してきた中に、日蓮宗の僧侶がいました。
その僧侶が建てた寺が、地図の左下赤丸の妙林寺です。

妙林寺のホームページが引用します。

妙林寺は大乗山を山号とし、通称は三門(ミカド)の妙林寺と呼ばれている。
当初は鳥取にあったが、備前池田光仲公と因幡池田光政公とのお国替えの時に、慈雲院日意上人が光政公に従い約380年前の寛永9年(1633)旧山先町に寺院を創立したのがその起こりである。

その後、約330年前の貞享3年(1686)2月第6世一往院日周上人の代に現在の地に移転し、約280年前の元文元年(1786)に現在の本堂・祖師堂・番神堂・鐘楼堂・仁王堂・山門・庫裡などを建立して現在に至っている。
昭和56年の宗祖七百遠忌を奉讃して本堂の大修理をはじめ諸堂大修理(昭和大修理と称す)を行った。
その後、平成8年に大客殿を建立し、同16年には本堂内陣の大改修を行い、広く明るい御宝前となった。

多くの堂屋が立ち並び、多大なる檀信徒に支えられている中四国屈指の大寺院である。


ということで、こちらは藩主の庇護を受けた日蓮宗寺院だということです。

私の村の「おそっさま」は、この寺とつながるわけです。
不授不施派を弾圧した藩主側にいたといえます。
私の先祖も関係ないとは言えないのです。

私の村は、備前法華ではない日蓮宗ということになるのかもしれません。
少し郷土資料を読んでみなくてはなりませんね。



冒頭の画像は、妙林寺の参道です。



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