岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【濃尾大震災】石井十次 その三

2005-02-08 20:04:07 | 石井十次
孤児救済を文字通り天職と信じている十次に、
それを確信する出来事が起こった。
1891年(明治24)の濃尾大震災である。
死者7200人。阪神淡路大震災に匹敵する規模である。

十次が救済に奔走するのは当然ではあるが、他の
心ある人々も行動を起こす。
阪神淡路大震災がボランティア元年といわれるように
この濃尾大震災は、孤児救済元年といってよいかも
しれない。

これを契機として、児童福祉に取り組む先人のひとりに
石井亮一(十次と同姓だが関係はない)がいた。
震災で親を失った女子が売られることを見かねて、
孤女学院を設立した彼は、その子どもたちの中に
知的な障害をもつ子どもがいたことで、自らアメリカに
留学し、障害児教育の先駆者となった。
現在まで続く滝乃川学園の創立とつながる。
1897年(明治30)のことである。

また、現在上映されている映画「ネバーランド」に
英国の孤児が「ピーターパン」の初演に招待される
話が挿入されているが、これが1903年(明治36)。
(お奨め映画。この時代の英国の雰囲気がわかる)
1909年(明治42)には米国で白亜館会議が開かれてる。
ルーズベルト大統領が児童福祉のために開いた会議で
ある。

このように見れば明治の先人たちの活躍は、
世界の中でも決して遅れてはいない。
十次にいたっては、世界の同じような運動を
していた人々と連帯していたといえる。

さて、十次は濃尾大震災時、どのように行動したの
だろうか。
1.東洋救世軍(いわゆる救世軍とは関係ない)の
  名のもと、職員派遣と募金活動の開始。
2.孤児教育として、孤児による義援金活動。
3.被害孤児の受け入れ。100名規模。
4.名古屋孤児院の開設。

孤児の受け入れについては、「ヤソ教徒による誘拐」
という風評にも苦しめられた。
もちろん、このような風評など彼にとっては小さな
試練でしかなかった。ひるむはずなどない。

この4つの活動が、以後の十次の社会事業の
事業モデルとなっていく。4点ともに非常に重要で
ある。

なお、濃尾大震災を、講談社の「日本全史」では、
「1891年(明治24)10月28日午前6時38分、震源地
岐阜県本巣郡根尾村でマグネチュード8.4の直下型。
有感半径880km、日本の60%は揺れた。家屋全壊
14万、山崩れ1万箇所」というから、とんでもない
天災だった。

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