岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

宮内岩太郎―療養所と岡山孤児院をつなぐ。

2008-10-28 22:25:00 | ハンセン病

『足跡は消えても ハンセン病史上のキリスト者たち』森幹朗著を
読んでいると、という言葉が枕言葉になっている今日この頃です。

宮内岩太郎(1871~1944)は、香川県の高松市生まれ。16歳の時に洗礼を受けた。
香川県庁勤めをしていたが、1905年には岡山孤児院に移っている。
当時、岡山孤児院は全国的に有名になっており、クリスチャンの彼には働きがいの
ある職場に思えたのではないか。就職後、さっそく東北大飢饉の孤児引取りに出張
したという。
そのころ香川県では大島療養所(香川県)の事務長を探していた。
そして宮内に白羽の矢があたった。出張先の青森で知事の手紙を受け取った彼は、
孤児をとるか、ハンセン病の患者をとるか迷ったが、知事の招きを受けた。
この時期、岡山孤児院は宮崎に移転することが決まっていたことも彼の決断の
後押しをしたのだろう。

事務長として赴任した彼は、早速、あろうことか聖書を手にキリスト教の伝道を
療養所内で始めたが、これを不快に思った人々は実力を持って抵抗した。
彼は2年ほどで島を後にせざるをえなかった。

高松に帰った彼は自宅に「高松救済会」をつくり救護活動をした。
また高松市と合同で要救護者の実態調査をし、窮民救助協議会の設置を市に呼び掛けた。
そして、43歳になった彼はキリスト教の伝道を自らのミッションと考え、教会を作り、
夜になると提灯を手に路傍伝道に出たという。
岩清水の学習課題である。岡山孤児院、ハンセン病療養所とキリスト者を一人で
体現された方がいたのである。

もっと深く知るためには、当時の新聞(香川新報)や香川県史、大島療養所資料に
当たることが必要である。資料については、森先生は本の中で参考文献として細かく
掲載されており後から学ぶ者への気配りが感じられる。
ありがたいことです。

※写真は岡山後楽園の茶屋ののれん。
岡山弁が書かれている。


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