岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

『アメリカ人のみた日本の検察制度』はとても興味深い。

2009-07-06 21:17:57 | 
デイビッド・T・ジョンソン氏のこの著作は引き込まれるね。
競技場まで持ち込んでしまった。

読む前は、アメリカ人が日本の検察制度の問題点を切り刻むのかと思ったら、
そんなシンプルな本ではなかった。

まさに、「日米検察比較研究」本。
アメリカの検察と対極にある日本の検察を比較することで、アメリカの検察制度を
改革することもできると提言しているようだ。

著者は、日本の検察制度は「一貫性」に重点を置いている。
簡単にいえば判例主義。
日本中の検察は、統一されていなければならない。
判断は、個別的であってはならない。
と検察幹部は考えるし、末端まで同様の認識を持つ。

それに対して、アメリカでは、判断は「個別的」である。
検察の一貫性など、あまり考慮されない。
他の検察官がどのように業務をしているのか関心は薄い。

組織を重視する日本、個性を重視するアメリカ。
検察も文化の所産のひとつ、というわけ。

しかし、日本の検察はあまりに顔がない。
国民にその姿が見えていない。
自らを広報する気はないのか、と問う。

知らないことだらけの検察だが、法務省はほとんど検察省ということもそのひとつ。
検察官が重要ポストを独占している(もちろん大臣や政務次官は違うが)。

検察官の「真実」に対する認識も日米はまったくことなるようだ。
日本の検察官は、「真実」は解明されるという。
すなわち、日本の検察は「真実の探究」こそが重要なのである。

一方、アメリカの検察の考え方は面白い。
「捜査や公判で過去の行為についての真実を確定できるということについては懐疑的である」
すなわち、「検察官のいう『事実』とは推測のことである」。

アメリカの検察官は「認識論的懐疑主義」ということになる。
私自身も近い考えのように思う。

日本の検察は、「真実が解明される」と考えるからこそ、自白が重要になる。
自白こそ、真実解明の確固たるエビデンスと考えているのかもしれない。

足利事件は、検察が作ったスト―リーを真実と思いこみ、菅家さんの自白を
「彼らの真実」に合わせた。
このように、冤罪は「真実探求の副作用」だったのかもしれない。

著者は繰り返して述べる。
国民は検察官を知らないし、検察官は巨大な権力を持ちながらも姿をみせない。
しかし、検察に国民の支持が必要なのかと問われれば、必要だという。
典型的な例が、金丸事件。五億円の違法献金が二十万円の略式起訴で終わった時に、
国民は検察に怒りを表し、裁判での証言を拒否したり、文句をいった。
このことで、検察は国民の協力の重要性を思い知ったという。

裁判員制度が始まれば、検察官の態度や考えが変わるというのは甘いかもしれないが、
わからないことはわからないということが、検察を変えることにつながるかもしれないと思う。

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