岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

鎌倉芳太郎の琉球探索をTV特集とともに その2

2020-04-12 14:35:41 | TV 放映

琉球のフィールドワークの第一人者鎌倉芳太郎をKSB(瀬戸内海放送)が追います。

私の参考文献は、『首里城への坂道』与那原恵著です。

鎌倉芳太郎の調査に協力した「八重山研究の父」といわれる喜舎場氏。

当時37歳、柳田国男来島の折にも調査協力しています。白保小学校校長。

 

撮影者は﨑山用宴。石垣島生まれ。台湾で写真技術を見習い大阪の写真館で腕を磨き、八重山に戻り

大正9年に開業。同12年に芳太郎と出会い、調査に同行。貴重な写真が今に残る。

中央の男性は岩崎卓爾。大正9年の台風で右目を失明した。宮城県出身、石垣島測候所勤務。

八重山の風土に惹かれ調査研究をしていた。当時53歳。

取材者が桃林寺を訪ねる。この寺で芳太郎は重要な発見をする。(明治のフェノロサを想起させる)

「鎌倉が石垣島の調査でテーマとしたのは、桃林寺と隣接する権現堂である。建築様式とともに、桃林寺山門にある一対の仁王像を初めとして、琉球における仏教芸術の発生期をとらえたいと考えた。「首里城への坂道」78p

住職に当時の話を聞く。

明和の大津波(1771年、遭難者石垣島だけでも約8500人)の翌年に桃林寺は再建され、修復した仁王像も納められたものの、島の復興は進まず、こののち餓死者、伝染病死者が続出した。王府は、他島からの住民を強制移住させ再興をはかるなどの策を取ったが島の人口は減少したまま、大津波いぜんの人口に回復したの148年後、大正8年になったからだ。」同79p。

芳太郎自身の文章にて「そのモチーフの純真なる遠く鎌倉期の仁王像をも凌駕するであろう」と絶賛した。同79p

この首里城の写真は、芳太郎自身が撮影、大正13~14年頃。応急修理がされています。

芳太郎の資料を参考に再建された首里城でしたが…。

再び、美しい容姿を見せてください。

この特集は継続されます。

楽しみにしています。

その1に戻ります。

お読みいただき有難うございました。


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