岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

ジモトについて記憶にあることを書いておこう。 その1

2014-06-05 12:20:12 | 岡山
川端浩平氏の『ジモトを歩く』という興味深い本を読んで思ったのです。
自分の記憶をきちんと文章にしておかなくてはならないことを。

上記の写真は、昭和11年当時の岡山市北部(現在の市域ではありません)です。
中心部分にあるのが陸軍の練兵場です。その上部にあるのが軍事施設です。
明治末に、ここに師団ができました。後に師団は縮小され連隊となりました。
これは国際軍縮会議のおかげです。
軍事施設ができる前は、辺り一面水田でした。
水田の中に農村があるという風景が弥生時代から続いていました。
津島遺跡に弥生時代の風景が再現されています。

軍隊の基地を造るというのは、大変な作業です。
大勢の人が工事のため、明治の末にこの地区にやってきました。
大工事を終えたその人々が記念に造った碑が練兵場脇に残っています。
今の総合グラウンドの一角です。

最近、ビッグイシュー津島販売所でお会いする89歳の女性と話をしていると、
その当時の人々の様子がわかってきました。
私の両親と同年代ですが、初めて聞いた話です。

その方の両親は一族とともに、四国から岡山に移住してきたそうです。
瓦職人の集団です。
軍隊の建築物を建てるためには膨大な瓦が必要だったのです。
新しい仕事場が岡山にできたわけです。
このように一族で移住するということが普通にあったのだと思います。

この地図の上部にある半田山の麓で土を掘り瓦を製造していたそうです。
驚きました。同じ小学校区内で、このようなことが行われていたとは、まったく知りませんでした。
私の小学校の友人宅はその瓦製造所のごく近くでした。
よく遊びに行きました。
私は何を見ていたのでしょうか。

下の写真が現在の地図です。



赤丸は、ビッグイシュー津島販売所です。

辺りは住宅で埋め尽くされています。昭和40年ごろから急速に変わっていったように思います。
高校卒業後に岡山から離れた私は帰郷するたびに変貌する風景に驚いていました。

軍事施設の跡地は、戦後、県に移管され、岡山大学と運動公園となりました。
立ち入り禁止地区から市民に開放されたことになります。

そのため、広大な緑地を市の中心部に造ることが出来ました。

もし、農家が土地を持ち続けていたならば、このあたりはすべて住宅として開発され尽くしていたことでしょう。

複雑な気持ちです。


最新の画像もっと見る