貧困とはどのようなものか。19世紀末、世界で最も資本主義
の進んだ英国で調査が進んでいた。もっとも富める国でなぜ
貧困調査なのか。
今では常識でもある「富めるものはますます富み、貧しい
ものはますます貧しくなる」という仕組みは、当時理解されて
いなかった。
だれがどこで貧困調査をしたかについてなら、社会福祉を学ぶ
ものはよく知っている。
さて日本国内にそのことを知らしめた人はだれだったのだろう。
経済学者の河上肇である。著書『貧乏物語』は、実は貧困調査
の紹介本でもあった。
『貧乏物語』は、1916年(大正5)に大阪朝日新聞に連載
された。この連載において日本国民は、「貧困の科学」という
ものを知ることになった。
反響は大きく大正デモクラシーへとつながっていく。
内容を少し書くと(さわりの部分)、
1、生活を維持するするためにどの程度のカロリーが必要か。
2、そのカロリーを得ることができない人間がどのくらい
いるのか。
3、貧困に落ちいたものの原因は?
4、貧富の差(=富の分配)はどうなっているのか。
5、貧しい児童に試験的に給食をした場合、やめた場合どう
なったか。
6、その調査結果を受けて、英国では児童に公費で給食を始める
ことになった。1906年の教育(食事公給)条例の発令である。
第2次世界大戦後、私たちも学校給食で大きくなったが、
その源はここにあると思う。
このように考えを進めれば、当然のことだが、貧困は社会制度に
密接につながっている。社会改革の運動が起こっていくことが
わかる。
しかし、十次は河上が『貧乏物語』を書いた1916年の2年前、
1914年(大正3)にこの世を去っている。
十次は、貧困とは何たるものか、科学としては十分知らなかった
かもしれないが、貧困がもたらすさまざまな現実と日々対決
していた。
十次たちが、進めた「救貧」活動が一応の使命を終え、代わって
「防貧」が求められるのは第2次世界大戦が終り、世の中が
落ち着く1960年代である。
救貧活動はまだ始まったばかりであった。
の進んだ英国で調査が進んでいた。もっとも富める国でなぜ
貧困調査なのか。
今では常識でもある「富めるものはますます富み、貧しい
ものはますます貧しくなる」という仕組みは、当時理解されて
いなかった。
だれがどこで貧困調査をしたかについてなら、社会福祉を学ぶ
ものはよく知っている。
さて日本国内にそのことを知らしめた人はだれだったのだろう。
経済学者の河上肇である。著書『貧乏物語』は、実は貧困調査
の紹介本でもあった。
『貧乏物語』は、1916年(大正5)に大阪朝日新聞に連載
された。この連載において日本国民は、「貧困の科学」という
ものを知ることになった。
反響は大きく大正デモクラシーへとつながっていく。
内容を少し書くと(さわりの部分)、
1、生活を維持するするためにどの程度のカロリーが必要か。
2、そのカロリーを得ることができない人間がどのくらい
いるのか。
3、貧困に落ちいたものの原因は?
4、貧富の差(=富の分配)はどうなっているのか。
5、貧しい児童に試験的に給食をした場合、やめた場合どう
なったか。
6、その調査結果を受けて、英国では児童に公費で給食を始める
ことになった。1906年の教育(食事公給)条例の発令である。
第2次世界大戦後、私たちも学校給食で大きくなったが、
その源はここにあると思う。
このように考えを進めれば、当然のことだが、貧困は社会制度に
密接につながっている。社会改革の運動が起こっていくことが
わかる。
しかし、十次は河上が『貧乏物語』を書いた1916年の2年前、
1914年(大正3)にこの世を去っている。
十次は、貧困とは何たるものか、科学としては十分知らなかった
かもしれないが、貧困がもたらすさまざまな現実と日々対決
していた。
十次たちが、進めた「救貧」活動が一応の使命を終え、代わって
「防貧」が求められるのは第2次世界大戦が終り、世の中が
落ち着く1960年代である。
救貧活動はまだ始まったばかりであった。