岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

岸田吟香の大きさ。

2014-05-09 15:08:18 | 岡山
明治の傑物と言われる岸田吟香(劉生の父)の一生を見渡すことは容易ではない。
それでも、時代背景を理解すれば手がかりは得られそうだ。

生まれは1833年である。幕末というには早い。
明治元年は1868年だから、明治の元勲とか十傑と言われる人々よりも年上だ。
例外は西郷隆盛は1828年生まれ。
坂本龍馬(33年)や桂小五郎(34年)と同世代だ。

もし、岸田吟香が薩長土肥に生まれていたら、かなりの確率で明治の元勲になっていただろう。
それとも、戊辰戦争で命を落としていたかもしれない。

岸田吟香は美作の庄屋に生まれた。学問をするために江戸に向かい(19才)、
勉学に励むとともに勤王攘夷的な行動もあったようで、まだ勢いのあった幕府から嫌疑をかけられ上州伊香保に隠れている。
その後、江戸にもどり深川、浅草辺りで商人の中で生活をしていたらしい。

この頃のことを「行動的なニヒリズムの知識人と自由な町人との境にいるマージョナルな人」と鍵岡正謹/岡山県立美術館館長は書いている。
なるほどと思った。

吟香をみていると、「薩長土肥の明治の元勲」以外の人物はどの様に明治を生きたのか、また生きることができたのか、その一端を知ることができる。
吟香は数人分の人生を生きている。それだけに、いくつもの明治の生き方を知ることができる。

それを上げてみよう。

1.出版者:ヘボンについて辞書編纂印刷をした(当時最高の印刷機を求めて上海まで出かけている)。

2.新聞記者:東京日日新聞主筆、台湾従軍記者。

3.事業家:目薬等の製造販売。中国にも進出販売。中国朝鮮の地図編纂(1に繋がる)

4.広告宣伝広報マン:自社製品の広告宣伝広報をしている。明治初期の広告宣伝広報として先駆的な役割を果たしている。

5.社会事業家:この部分はWIKIからの引用です。今回の展示会では触れられていない(6も同様)。

「中国については、商業的な活動だけでなく欧米の医療技術普及についても活動を行い、中国各地に病院を設けた同仁会(1902年設立)にも積極的に参加した。一方的に欧米式の医療を広めるだけではなく、漢方薬にも注目し日本に普及させてもいる。また、現在でいう福祉活動にも積極的であり、盲人教育への関心も強く、前島密・中村正直・山尾庸三らと、1880年に授業を開始した楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設している」

6.政治的(教育的)な活動:同文会や東亜同文書院大学創設にもかかわっている。

明治という時代の雰囲気が感じられる。
ただ、日本のメインロード(政治、経済、教育、軍部)ではない。

このあたりが、「行動的なニヒリズムの知識人と自由な町人との境にいるマージョナルな人」という人物像の妥当性を感じるところである。




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