濃尾大震災の救済について奔走する十次は、岡山孤児院の
子どもの教育にもなると、あることを思いついた。
岡山孤児院の子どもによる救世軍である。もちろん、
軍平の救世軍ではない。その救世軍は4年後に
日本上陸をする。
子供たちの救世軍は、ラッパを鳴らし、旗をたなびかせて、
岡山市内を歩き、義援金を集めた。
やがて、市内だけでなく、県内の各地を回った。
震災の年の11、12月の2ヶ月間で、900円が集ったと
いう。米に換算して20tに相当する金額である。
今のようにテレビやラジオで義援金を募集するというわけには
いかない時代である。大変は金額である。
岡山孤児院の子どもたちが、同じような身の上になった
被災孤児の救済を訴える行進に、岡山の人々は、心打たれたに
ちがいない。
また、震災孤児を救済する岡山孤児院の活動は
宣教師ペティーを通じて、世界に発信されていく。
その結果、92年(明治23)には、年間6175円に
達する寄付が海を渡ってきた。
先ほどの米換算では、123t。10tトラック12台分
である。これが、一施設に注がれた支援である。
この時、世界中から濃尾大震災に対して、総額でどの程度の
支援があったのか知るよしもないが、決して世界からの善意を
忘れていいわけではない。
現在、スマトラ沖大地震で世界的救済が求められているが、
100年前の人々も同じように行動を起こしていたことは知って
おかなくてはならない。それが私たちの使命でもある。
この「被災孤児の救済を訴える行進」は、やがてブラスバンドの
音楽隊として成長を遂げていく。
が、今はその始まりの部分だけを書き記しておこう。
「正しいことを行え。結果はついてくる」
一直線に走る十次を、世界は追いかける。
資金という命綱を持って。
子どもの教育にもなると、あることを思いついた。
岡山孤児院の子どもによる救世軍である。もちろん、
軍平の救世軍ではない。その救世軍は4年後に
日本上陸をする。
子供たちの救世軍は、ラッパを鳴らし、旗をたなびかせて、
岡山市内を歩き、義援金を集めた。
やがて、市内だけでなく、県内の各地を回った。
震災の年の11、12月の2ヶ月間で、900円が集ったと
いう。米に換算して20tに相当する金額である。
今のようにテレビやラジオで義援金を募集するというわけには
いかない時代である。大変は金額である。
岡山孤児院の子どもたちが、同じような身の上になった
被災孤児の救済を訴える行進に、岡山の人々は、心打たれたに
ちがいない。
また、震災孤児を救済する岡山孤児院の活動は
宣教師ペティーを通じて、世界に発信されていく。
その結果、92年(明治23)には、年間6175円に
達する寄付が海を渡ってきた。
先ほどの米換算では、123t。10tトラック12台分
である。これが、一施設に注がれた支援である。
この時、世界中から濃尾大震災に対して、総額でどの程度の
支援があったのか知るよしもないが、決して世界からの善意を
忘れていいわけではない。
現在、スマトラ沖大地震で世界的救済が求められているが、
100年前の人々も同じように行動を起こしていたことは知って
おかなくてはならない。それが私たちの使命でもある。
この「被災孤児の救済を訴える行進」は、やがてブラスバンドの
音楽隊として成長を遂げていく。
が、今はその始まりの部分だけを書き記しておこう。
「正しいことを行え。結果はついてくる」
一直線に走る十次を、世界は追いかける。
資金という命綱を持って。