1933年 藤田は日本にやってくる。帰国ということばとはかなり
ニュアンスが違うようだ。
彼にはまず第一に画を描くこと、そして第2に生活することが必要だった。
その2つを満たしてくれる国が日本だった。
そのように考えれば彼が日本にやってきても絶えず旅をしていた理由が
わかる。彼にとって定住の地はパリ以外になかった。
しかしパリに居続けても行き詰まる。
さて日本から20年離れていた藤田にとって日本人や日本はどう映るのか。
これは私自身大変興味があることだ。
彼が描いた日本の人物は、日本人が描くそれとは随分異なるように思う。
一言でいえばフランス人の目を通した日本人や風土だ。
オリエンタリズム、異国趣味といってよい。
これは藤田が誰に認められたいのかということである。
当然フランス人に(=世界)に認められてもらいたかった。
日本人が日本人を描く写実とは距離がある。
帰国しても彼はフランス人でありたかったのだろう。
だが鏡の前にはどうしてもフランス人になれない藤田がいるが、
対面する日本人にはフランス人FOUJITAと思ってほしかったのだろう。
それはかって藤田を見放した日本に対する屈折した優越感である。
彼の日本のアトリエは、フランス人の日本趣味そのものに思える。
外国に遊んだ日本人のほとんどは帰国後、その外国風の住空間や
アトリエ造るが、藤田は旅した国の中でその風土のアトリエを創る。
ゆえに日本でのアトリエも日本風(フランス人から見て)にしたのだ。
私には藤田の精神について分析する力はないが、生来の美意識は家系でもあり、
女性観は、5才の時に亡くした美しい母への想いにあるように思われる。
母に対する想いが永遠であれば、彼の女性遍歴も永遠に(生きている限り)
続く。ここでも満たされない心を見てしまう。
そして日本での画家としての不遇の時代が彼の精神をより複雑にしたようだ。
彼が戦前の日本で多くの作品を残し、やがて戦争画家としてもアジアを歩く
ことになるが、これは藤田を認めなかった日本に対する優越感と、性格としての
面倒見のよさから来ることであろう。
なにしろ彼は「国際的画家であり良家の子息」である。
彼が戦争画をどのような心理で描いたは理解しにくいが、次回考えてみようと思う。