中尾伸治さんは、今年80歳になられました。
長島愛正園の自治会長をされています。
入所から66年だそうです。
14歳の時に強制収容されたことになります。
療養所行きには医師も同行してくれた。
心強かった。他に保健師や県職員も同行してくれた。
汽車を降りてから日本食堂で食事の後、「高級車」で虫明(港がある)まで行ったそうです、
この「高級車」は、中尾さんのジョークで、トラックの荷台にガソリンとともに載ったとのことです。
療養所では、治療のために注射される日々だったそうです。
痛い注射だけれど半年で治ると言われて我慢した。
全然効かなかったけれど、まだ半年経っていいないのだろう(中尾さんのジョーク)。
昭和21年に特効薬「プロミン」が開発され、ハンセン病は治る病気になりました。
療養所では、なんでもしました。
畑仕事、土木、木工、重症者の看護、目や手の不自由な人の介護、亡くなった人の火葬まで。
病人とされ収容されながら、労働を強いられたのです。
帰省する機会もあったけれど、行く先々で、尋問を受けた。
兄からは、「自分に子どもが出来たから家に帰らないでほしい」と言われた。
昭和40年に帰省すると、ガイドをしてくれた方から母と兄の死を聞いた。
それまで誰も教えてくれなかった。
収容された時、家は徹底的に消毒された。井戸水は使えなくなった。
このことが村の人に恐怖心を植えつけた。
そして、家族から引き離された。
この7月にテレビを見ていると、5人家族の中のひとり、小学生の児童が話していた。
「この幸せな家から出て行きたくない」。
中尾さんは、「こんな幸せな家に入りたかったな。私には幸せなひとときはなかった」
「私は本当に不幸な目にあったんだなと思った」と言われました。
そして、これからの人生についても話されました。
「私の夢は、この長島を世界遺産に登録したいということです
現在30棟の古い家があり、6棟は開園当時のもの。
みんなこの中で生活し、そして天国へ行った。
この島を、人権の島として、世界へ知らしめたい。」
また、「現在は埋められている愛生園の監房を再現したい」とも話されました。
この愛生園の監房については、慟哭の歌人と言われる明石海人さんの歌があります。
監房に嘲りわらうもの狂い
夜深く醒めてその声を聴く
ハンセン病に関しては、このブログでも、65記事掲載しています。
カテゴリー「ハンセン病」です。
長島愛正園の自治会長をされています。
入所から66年だそうです。
14歳の時に強制収容されたことになります。
療養所行きには医師も同行してくれた。
心強かった。他に保健師や県職員も同行してくれた。
汽車を降りてから日本食堂で食事の後、「高級車」で虫明(港がある)まで行ったそうです、
この「高級車」は、中尾さんのジョークで、トラックの荷台にガソリンとともに載ったとのことです。
療養所では、治療のために注射される日々だったそうです。
痛い注射だけれど半年で治ると言われて我慢した。
全然効かなかったけれど、まだ半年経っていいないのだろう(中尾さんのジョーク)。
昭和21年に特効薬「プロミン」が開発され、ハンセン病は治る病気になりました。
療養所では、なんでもしました。
畑仕事、土木、木工、重症者の看護、目や手の不自由な人の介護、亡くなった人の火葬まで。
病人とされ収容されながら、労働を強いられたのです。
帰省する機会もあったけれど、行く先々で、尋問を受けた。
兄からは、「自分に子どもが出来たから家に帰らないでほしい」と言われた。
昭和40年に帰省すると、ガイドをしてくれた方から母と兄の死を聞いた。
それまで誰も教えてくれなかった。
収容された時、家は徹底的に消毒された。井戸水は使えなくなった。
このことが村の人に恐怖心を植えつけた。
そして、家族から引き離された。
この7月にテレビを見ていると、5人家族の中のひとり、小学生の児童が話していた。
「この幸せな家から出て行きたくない」。
中尾さんは、「こんな幸せな家に入りたかったな。私には幸せなひとときはなかった」
「私は本当に不幸な目にあったんだなと思った」と言われました。
そして、これからの人生についても話されました。
「私の夢は、この長島を世界遺産に登録したいということです
現在30棟の古い家があり、6棟は開園当時のもの。
みんなこの中で生活し、そして天国へ行った。
この島を、人権の島として、世界へ知らしめたい。」
また、「現在は埋められている愛生園の監房を再現したい」とも話されました。
この愛生園の監房については、慟哭の歌人と言われる明石海人さんの歌があります。
監房に嘲りわらうもの狂い
夜深く醒めてその声を聴く
ハンセン病に関しては、このブログでも、65記事掲載しています。
カテゴリー「ハンセン病」です。