岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

私の今日この頃。

2014-09-06 18:12:56 | 岡山
9月から、あるNPOに勤め始めました。
私の場合は、時間的に制約があるので、フルタイムでの仕事はできない。
フルタイムの4分の3程度までしか働けない。

この条件を認めてもらうことができたので有期だけれども働き始めた。
岡山に単身で帰って6年半経過したので、社会福祉関係業務の知人も多くなっている。
その人びとと再び一緒に仕事をすることができる。
これは喜びだ。

昨日、事務所で電話を受けると、かつて一緒に仕事をしていた人だった。
先方はとても驚いていた。
また一緒に仕事ができることを喜び合った。

このNPOがどのような事業を行っているか、やがて書きたい。
でも、今ではない。

私は50代の初めに、学校卒業以来勤めた会社の希望退職を受け入れた。
大量の退職者を出し経費節減に励んだせいか、その会社は今も存在する。

その当時から「働く」ということについて考えてきた。
「働く」ということをどのように定義するかという問題も含めて。

その結論的な考えは、凡人は「働くことによって経済的にも精神的にも安定する」という当たり前のことだ。
もちろん、それは私のような凡人に当てはまることで、非凡な人には当てはまらない。
結論は平凡だけれど、その答えの中身はなかなかに複雑だ。
凡人はあまり深入りしないようにしなくてはならない。
なぜなら、手に負えなくなるからだ。
これは哲学的テーマでもあるのだから。


退職してから様々な職業や職場を経験した。
授産施設で働く人びととも仕事をしてきた。

その人びとには、「働く」ということの意味は、凡人の私以上だった。
彼ら、彼女らの精神的な安定に強く寄与しているように感じた。

それは、「働くのは当たり前」という社会の中では精神的にも疎外されないですむから。
ゆえに自身のアイデンティティが維持できるのだ。
仕事という社会参加が、心に拠り所を与えていることがよく理解できた。

だが、このことにも疑問があった。
人間は「働いている」という前提なしで「存在していること自体」に意味があるのだと思うからだ。

しかし、社会(社会通念という意味でも)は、「働くこと」に、過剰な重みを持たせている。

経済にとっては、「働く」ということは、対価としてお金を得ることといっていい。
経済活動という意味だ。

社会にとっては働く=所得ではない。
お金に換算できない「働く」ことは、いっぱいある。
ボランティア活動であり、家事、育児、介護などが家庭内で行われれば、「働くこと=所得」にはならない。
シャドウ・ワークといわれる。
シャドウ・ワークを金銭的価値で計算するという試みもある。
しかし、そのようなことに意味があるのかという問いかけもある。
意味としては限定的だといえる。

インドで活動をされている仏教者が数十年ぶりに帰国し、驚いていた。
それは、日本では金がなければ生きていけないということだ。
インドでは、金がなくとも生きて行けるという。
この言葉は魅力的だった。
このような国が地上にまだあり、今まで生き残っている。
もしかすると、私たちの将来は、インドに近い所にあるのかもしれないとまで思った。

金がなくとも生きていけるなら、経済として働くということの意味は変わってくる。

国は、「働くことができる人は一人でも多く働くべし」といい、「働かざるもの食うべからず」を原則にしたいように思われる。

社会の中で、人びとが偏見なく、優しい心で生きることを目指すなら、柔軟な考えが許容されなければならない。

「働く」ことに関しても、柔軟な考えを持ちたい。

硬直的に考えてはならないと考えている。

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