北海道大学の宮本太郎先生著「生活保障~排除しない社会へ」(岩波新書《赤》1216 800円+税)を読みました。
『社会保障』でもなく『生活保護』でもなく、生活不安を解消する新しいビジョンとして宮本先生が提案するのが「生活保障」というキーワード。
さらに一言で言うと「雇用と社会保障を結びつけて『生きる場』を取り戻す」ということになります。
生きるうえでの社会的ネットワークとして『労働する』ということの重要性をまず捕らえ、それが何らかの事情で果たされなくなったときにはそれを支える社会システムづくりを目指すべきだという主張です。
1990年代以降、日本経済のグローバル化の進展により労働市場に大きな変化が現れました。それは、生産が安価な労働力をもつ海外へ移ってしまったことで、国内に仕事の需要が減ったことです。
日本的経営の慣行は、長期的雇用や公共事業によって広く雇用を提供し生活を支えるというものでしたが、主に男性稼ぎ主に対する長期的雇用が前提であったために労働での社会保障はそうした人たちへの失業保険などが中心でした。
しかし仕事が減って、男性稼ぎ主の長期雇用が衰退しパート労働者が増えた今日、パート労働に対して脆弱だった雇用や社会保障が国民の生活を保障しきれないものになっています。
男性稼ぎ主が正規雇用であることを前提とした非正規雇用との組み合わせであったために、非正規労働者の多くは雇用主が社会保険に加入する義務を負っておらず、多くの非正規労働者は社会保険から実質的に排除される結果となっています。
また収入が安定しない低所得の人々にとっては国民所得や国民健康保険料を払い続けることすら困難な現実におかれています。
世間では目に見えやすい年金問題ばかりが注目と非難を浴びていますが、その裏では雇用への保障という、これまた重要な再配分機能が全く充実されないままに放っておかれているのです。
国民の労働が守れないことが社会を分断し断層が生じてきています。主要な亀裂の一つは、相対的に安定した地位を確保している正規労働者と、パート、アルバイトなど不安定な地位にある非正規労働者層との間の所得格差という形で生じています。
またそれは男女間の格差、日本人と外国人の格差など多様な形で複雑にクロスしながら社会を覆っています。
これはひとえに国という機関における再配分機能の弱さに起因しており、国自身が問題意識をもたなくてはなりません。
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それと同時に、雇用と社会保障から排除されたアウトサイダーの中では生活不安と貧困が広がりますが、同時に深刻なのが「寄る辺のない孤立感」です。
失業によって社会から分断されて行くことも問題ですが、同時に就労していても社会の紐帯が失われつつある今日、人と人との関わりの薄さが問題になっています。
秋葉原での殺傷事件の犯人も、携帯電話による掲示板でのコミュニケーションが心の支えであり、それが自分の心の叫びに反応しなかったことで最後の一線を越えてしまいました。
雇用という形で経済的な安定を果たすと同時に人は『相互の承認』という形で心の安定が図られなければ生きては行けないのです。
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今日ヨーロッパのEUでは、重要な社会政策が貧困対策であり、同時に誰をも排除しない社会として、『社会的包摂(しゃかいてき包摂)』という概念を重要視しています。
社会的包摂とは、様々な貧困や失業、差別などに関わって社会から排除されている人々を社会の相互的な関係性の中に引き入れて行こうという考え方です。
それは就労支援であったり、所得保障、職業訓練、地域における社会参画の促進などの姿で実現が試みられています。
経済的貧困と同時に生きる場への誘いということ、つまり「所得の再分配」と「相互承認」によって排除しない社会というのが「社会的包摂の実現」ということです。
国における福祉分野の充実や経済成長、公共事業や企業誘致による地域における雇用の確保や社会参画、相互の助け合いなどは全て、社会的包摂を実現させるために必要な事柄なのではないでしょうか。決してそのこと自体が目的となるものではないはずです。
あるべき美しい地域社会、幸せな市民生活というものの理想像を描くことができなければ、そこへの道筋も分かりづらいものになりますが、私自身はこの「社会的包摂の実現」という単語こそがそのものなのだと思います。
そのために市民・国民一人一人、仕事など社会的役割を担っている人たちはどのような協力ができるでしょうか。
そこでこそ、国の力、地域の力、市民の力が試されることになりそうです。