K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

奈良へ2泊3日 唐招提寺

2010年5月7日曇 夕方から雨


しばらくお休みしました奈良への続きです。(2010年4月7日)

勝間田池から薬師寺八幡院を通過して薬師寺中門の外からお薬師さんを拝んで、秋篠川沿いを1Kくらい北へ歩きました。そこは唐招提寺です。唐招提寺の金堂は数少ない奈良時代の遺構です。井上靖の『天平の甍』のモデルということでも有名な建造物です。この金堂は10年に及ぶ平成の大修理が完了したので、ぜひ、拝観したいと思っていました。(2009年秋 金堂平成大修理落慶法要)

唐招提寺金堂


唐招提寺を開いたのは唐から渡日した鑑真です。鑑真は入唐した栄叡と普照から日本での授戒を懇請されました。鑑真は航海の危険や鑑真の供として日本へ渡ることを渋った僧侶の妨害など多くの困難に直面しても、盲目になっても日本へ戒律を伝えようと753年の遣唐使の帰り船に乗船し12月に九州の南部に上陸しました。鑑真は九州の大宰府近くの観世音寺に宿泊し、ここで最初の授戒をしたようです。


※ 授戒とは? 戒を授けること。授戒の儀式は10人以上の受戒僧尼の前で、己に誓う(戒)、互いに誓い合う(律)。授戒された者は正式な僧侶と認められる。
※ 戒とは? 僧侶として守るべきこと。そのほんの一例として不殺生・不盗・不欺・不飲酒などです。
※ 日本は701年に大宝律令(律:刑法 令:行政法規)が成立して、ようやく国家のしくみが整いました。そして、唐の都・長安を手本とした平城京を造営して710年に遷都し、奈良時代となります。奈良時代は仏教で国を鎮めたいと願う鎮護国家でした。そのため仏教を保護しました。そのようなわけで、奈良の大寺院は国家の寺院で、そこで働く(寺の僧)人々は今の言い方なら国家公務員です。国はお寺や僧侶を統制していました。しかし、当時の日本には授戒のできる僧がいなかったので、僧は皆自らの誓いで僧侶となったものだけでした。そこで授戒の資格を持つ高僧鑑真の渡日は待望でした。


鑑真は754年には入京して東大寺に戒壇を設け聖武太上天皇はじめ光明皇太后、孝謙天皇・・・に授戒しました。その後、天武天皇の子・新田部皇子の旧邸を賜って唐招提寺と命名して、日本の地で生涯を終わりました。

話は戻りますが、鑑真は危険な航海をしてまで日本へ渡ることを玄宗皇帝からを禁じられていました。そこで、遣唐使の大使・藤原清河は鑑真の乗船を拒否しました。ですが副使大伴古麻呂はこっそり遣唐使の第2船に鑑真を乗せました、大変な航海だったようですが、ようやく日本へたどり着きました。しかし、大使の乗った第1船は遭難してしまいました。その船にあの安倍仲麻呂も乗船していました。清河と阿倍仲麻呂はベトナムの方へ流れ着き命は助かり、長安へ戻ることができましたが、中国の地で生涯を終わることになりました。この時のもう一人の副使吉備真備は第3船に乗船して帰り着きました。753年の遣唐使帰り船は歴史に残るドラマがたくさんあります。
 あま原 ふりさけみれば 春日なる 
    三笠の山にいでし月かも    阿倍仲麻呂

旧皇子の邸宅跡が感じられる境内の雰囲気はとても気持ちが落ち着きます。







金堂


残念なことに堂内へは入れなくなり、如来形立像など多くの諸仏はコンクリート作りの新宝蔵に移されてしまいました。

新宝蔵   別料金100円



人の姿がある辺りの塀のうちに鑑真和上像を安置する御影堂があります。鑑真忌(6月5日~7日)のみに拝観できます。



戒壇




金堂




西ノ京の駅まで線路沿いの道を歩くと薬師寺の入口です。



この塀のあたりに高田好胤師のお住まいほうこう院があったわけなのに、と、懐かしく歩きましたが、その建物は見つかりませんでした。




続く
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