奈良行の目的の1つは復元された平城宮を見学することでした。
4月7日雨上がりの寒い朝、平城宮へ行こうとホテルを出ようとした時、『7日まで法華寺秘仏十一面観音の開扉』の掲示に目が留まりました。平城宮の近くだから「寄ってみましょ」と、、、、
法華寺と海龍王寺は予定外のおまけ見学となりました。
法華寺は十一面観音像が有名ですが以前に鑑賞しているので、さほどワクワクの見学ではありません。学生時代、史蹟研究のサークル活動で法華寺を訪問した時に、十一面観音像のあまりの小ぶりにびっくりという思い出だけです。そして、この十一面観音像は写真の方がインパクトがあるという思いを持っていました。
法華寺と海龍王寺を訪れて思うのは、この頃は仏教美術のみではなくその背後の歴史や宗教・文学への総合的な理解が必要だと考えるようになっていましたので、このおまけの2寺の見学は奈良時代の藤原氏台頭の権力争いの歴史に思いに馳せるのに重要なお寺だったのだと気付きました。
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宿は奈良ロイヤルホテル
赤い線が歩いた道。
緑の四角 上 法華寺と海龍王寺(藤原不比等邸だった地域)
緑の四角 下 長屋王の邸のあった地域
平城宮の東北隅の藤原不比等邸あとに建立したお寺が法華寺と海龍王寺です。不比等は中臣鎌足の息子でした。鎌足は生涯をかけて中大兄皇子(天智天皇)の側近として仕え、亡くなったときに天智天皇から藤原の姓を賜りました。しかし、天智天皇の死後に起こった壬申の乱で藤原氏は敗者大友皇子側でしたので、一族は処罰されてしまいました。不比等は壬申の乱当時に13歳と年が若かったので乱には関与せず処罰の対象にならず生き延びることが出来ました。ですが、勝者天武天皇の時代には政治の中心から外れたところに位置し下級役人としの存在だったと思われます。ところがその後、頭角を現し(本人の素質と宮廷で大きな力を発揮していた後妻の橘三千代の力)、大宝律令の編纂に力を発揮し文武天皇から藤原の姓は不比等の子孫のみ名乗ること、臣下として大臣の家柄となることを認められました(当時、右大臣・左大臣は皇族とされていました)。さらに不比等は平城京遷都に尽力し右大臣として奈良時代初期の政権を担当しました。不比等が平城宮の東北隅に邸を置いたということは『君主南面』から考えると、内裏とその位置を同じくするので平城京遷都の時にその権勢はすでに絶大だったことを示すゆえんのようだなと思いました。不比等は娘宮子を文武天皇(天武・持統天皇夫妻の孫)に嫁がせ首皇子(聖武天皇)誕生となりました。不比等の死後は皇族の長屋王が政権を担当します。が、不比等の4子が妹光明子を聖武天皇の皇后ともくろみ、学者肌の左大臣長屋王に光明子の立后を反対されるだろうと(この時まで、臣下の娘が皇后となる例がありませんでした)長屋王邸を襲い長屋王を自害させました。このような次第で光明皇后の誕生なります。
さて、聖武天皇の国分寺建立の詔に際し、全国に国分尼寺も建立することになりました。そこで、光明皇后は父不比等の邸の一角に総国分尼寺として法華寺を創建しました。
法華寺では法要が始まるところだったので、拝観は正午以降ということで平城宮見学の後にすることにしました。
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法華寺庭園
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華楽園
五月梅
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浴室(からぶろ)
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海龍王寺
遣唐使・僧玄昉が無事お経を持って帰国するように祈念して光明皇后が父不比等の邸あとに建立した寺とのことです。
また、不比等が邸を建てる以前、すでに、飛鳥時代にこの地には毘沙門天を祀っていました。不比等は毘沙門天の堂を取り込むように邸を建てたそうです。光明皇后は平城宮の東北(鬼門)を護る守護神・毘沙門天を祀る意味もこめての海龍王寺を建立したようです。
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ここの見所は4Mくらいの塔です。
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続く (次は今回の旅行の本命、西ノ京勝間田池からの薬師寺です)