尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アーネスト・サトウと幕末-萩原延壽「遠い崖」を読む①

2018年06月10日 22時58分29秒 |  〃 (歴史・地理)
 歴史家の萩原延壽(はぎはら・のぶとし、1926~2001)の大河歴史書「遠い崖」を読み続けている。これは幕末から明治にかけて日本に滞在したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記をもとに、激変する日本と向かい合ったサトウを描く大作である。朝日新聞夕刊に断続的に14年間連載され、1998年から2001年にかけて全14巻が公刊された。2007年から2008年にかけて朝日文庫に入った時に買ったけど、長いから読んでなかった。「明治150年」の今読まないと、ずっと読まないと思って読み始めた。

 第9巻まで読んできた。まだ残っているけれど、だんだん忘れてくるから幕末編を書いておきたい。どんどん面白くなってきて、このまま続けて読み終わりそうである。実に面白い読書体験で、人生で一度は読んでおかないと損するような本だ。幕末明治の歴史に限らず、日本の国際化を真剣に考える人は是非チャレンジするべきだ。とにかくアーネスト・サトウという人物が面白い。僕は奥日光が好きで、ブログでも何度も書いたけど、奥日光を多くの人に知らしめたのがサトウである。子息の武田久吉博士も山好きの植物学者で、尾瀬の保護に努めたことで知られる。だからもともとサトウには親近感があったんだけど、こういう人だったのかという面白さ。
 (アーネスト・サトウ、1843~1929)
 一番面白いのは、日本史の教科書に必ず載っている人物と直接会っていることだ。西郷隆盛とも勝海舟とも知人だった。海舟からは馬までもらっている。(乗馬が好きなのである。)しかし、この二人が江戸開城工作をしていることは最初気づかなかった。西郷とサトウはすでにずいぶん話せる関係になっていたのに、西郷は大事な時にサトウに情報を漏らさなかった。木戸孝允なんかも知り合いだが、伊藤博文井上馨のような20代で英国滞在体験がある人とは、ほとんど友人関係になっている。サトウも「薩道」と名乗って、幕末の志士のごとき大活躍である。

 「サトウ」(Satow)は変わった姓だけど、もともとはドイツ系の名前で父はリガ(今はラトビア首都、その頃はスウェーデン)からイギリスに来た金融業者だった。ルター派で、英国教会ではない。アーネストは数多い子どもの中でただ一人大学まで行った。当時は非国教徒はオックスフォードやケンブリッジには入りにくく、宗教色のない大学へ行ったという。だから英国の真のエリートではない。中国や日本は当時神秘的な東洋帝国として憧れる人が多かった。サトウもオリファントの旅行記を読んで日本に関心を持った。だから自分で希望して東洋勤務を選んだが、一種の「ノンキャリア外交官」だったのである。

 晩年になって引退後にロシア語を独習し、「戦争と平和」を原書で読んだという。言語的な才能があったのである。最初は中国で訓練を受け、1862年に通訳生として来日した。まだ19歳で、幕末明治のドラマを20代で体験したのである。会話を覚えるだけでなく、文語文にも習熟した。その知識がないと幕府や明治政府に日本文で公式文書を出せない。「サトウ」という名前も日本風で役だったというが、人柄的に付き合いやすかったらしい。若くて吸収力も早いが、常にノートを持って知らない言葉を聞くと書き留めた。それが後に辞書となって公刊された。酒も強いし、芸者遊びなんかも付き合うから、日本語をどんどん覚え友人も増える。重要人物との会談の通訳は任されるし、それだけでなく日本人とのつながりを生かして、一種の「情報将校」としても活躍した。
 
 よくイギリスは薩長、フランスは幕府を支持したと思われることが多いが、この本を読むとフランス公使ロッシュはほとんど本国の指示を無視した「個人外交」だった。当時のフランスはルイ・ナポレオンの第二帝政時代で、ロッシュは北アフリカで現地指導者にロマンティックな英雄を求めてしまう傾向が強かったという。日本でも洗練された宮廷外交ができる徳川慶喜に思い入れしたのは、ナポレオン3世時代らしいエピソードなのかもしれない。一方のイギリスがそこまで幕府一辺倒にならずに済んだのは、サトウを通じて討幕派の情報も得ていたからである。つまり現地語を駆使して反体制派の情報をつかめる外交官の重要性がよく判る。

 西郷隆盛とサトウの秘密会談はこの長い歴史叙述の白眉と言える。来日当初は生麦事件、薩英戦争で薩摩藩の印象が悪かったが、次第に薩摩藩の多数の人と交流を持ち実力を認めてゆく。そこからむしろ薩摩びいきになってゆき、西郷との会談では英国が支援してもいいとまで言ってしまう。しかし西郷はこれは国内の問題だと英国の支援を拒絶する。サトウが英国の中立政策を超えて個人的なことを言ってしまったのも「若気の至り」か。後にサトウが北京公使を最後に引退するとき、日本を訪問し大歓迎された。その時に松方正義から「西郷が大久保にあてた手紙」を見せられる。そこでは西郷があえてサトウを挑発し、イギリスのホンネに探りを入れる凄みが語られていた。サトウは著書「一外交官が見た明治維新」ではこの話は注意深く伏せられているという。

 西郷という人物の謎を秘めた恐ろしさがよく表れている。ある意味で西郷隆盛は、フィデル・カストロとチェ・ゲバラを一身にして兼ねている人物だった。戦略を駆使して成功を求める政治家であるとともに、永遠の夢想家でもあった。一方、徳川慶喜も負けていない。英国公使だったパークスも慶喜との謁見を終えると、その若々しい貴公子ぶりに魅せられてしまった。薩摩びいきになっていたサトウが心配するほどに。朝廷側の人材能力が不明な段階では、徳川慶喜率いる幕府がその後も政権を担当するというのもまんざらありえなくもなかった。それを西郷や岩倉具視がいかに崩してゆくか。しかし、その段階になるとサトウはもう外から見ているしかない。外交官の宿命である。将軍と天皇の関係など興味深い問題があるがまた別に書きたい。
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