沖田修一監督脚本・監督の映画「モリのいる場所」は、超俗の画家と言われた熊谷守一(くまがい・もりかず)の日々を描いている。何しろ何十年も自宅の庭しか出なかったというから凄い。そして庭で虫や植物をじっと眺めて暮らし、抽象画のような虫の絵を描いた。その自宅はどこにあったかというと、豊島区要町なのである。池袋から地下鉄で一駅、今や住宅地のど真ん中だけど、ここに豊島区立熊谷守一美術館が建っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/41/e7/dbdffbd4e54e3631bbbefae50a5d7133_s.jpg)
淡々としたドキュメンタリーを見ている感じもする映画だが、熊谷守一本人は1977年に97歳で没している。だから俳優が演じている劇映画なんだけど、それは見ている人も皆判っている。だけどモリを演じる山崎努、その妻を演じる樹木希林、二人ともが仙境に入りつつある感じで、なんとも素晴らしい存在感である。演技力なんてものを軽く超越してしまった感じである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/17/5b/c4e26cfc823610440647792a79f51bd6_s.jpg)
モリは一日中庭で何をしているのか。上の画像はアリを見ているところ。アリは左二本目の足から歩きだすということを発見したというんだけど、他の人には判らない。アリなんか見ていて面白いかと言えば、でもなんだか面白そうではある。他にもやりたいことがあるから自分はやらないけれど、昆虫観察は面白いだろう。小さな庭だけど、そこには宇宙に通じる秘密が隠されている。生き物の世界というのは、そういうもんだ。でも、普通はここまで極端にはならない。単に芸術家というだけでは解けない人間としての秘密もありそうである。
モリの家には多くの人が訪ねてくる。それらの人々との交流をユーモラスに描きながら、映画は進んで行く。映画内で登場人物が深刻な対立におちいるわけではなく、日常とはちょっと違う環境にありながらもユーモラスに日常が進んで行く様を「観察」している。そういう作り方は、沖田監督の脚本・監督作品に共通してる。「南極料理人」「キツツキと雨」「滝を見にいく」「モヒカン故郷に帰る」など大体そんな感じ。「横道世之介」は吉田修一原作の力が大きく一番面白かったと思うが、「モリのいる場所」はまた違った感じの傑作だ。何といっても山崎努と樹木希林が忘れがたい。
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淡々としたドキュメンタリーを見ている感じもする映画だが、熊谷守一本人は1977年に97歳で没している。だから俳優が演じている劇映画なんだけど、それは見ている人も皆判っている。だけどモリを演じる山崎努、その妻を演じる樹木希林、二人ともが仙境に入りつつある感じで、なんとも素晴らしい存在感である。演技力なんてものを軽く超越してしまった感じである。
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モリは一日中庭で何をしているのか。上の画像はアリを見ているところ。アリは左二本目の足から歩きだすということを発見したというんだけど、他の人には判らない。アリなんか見ていて面白いかと言えば、でもなんだか面白そうではある。他にもやりたいことがあるから自分はやらないけれど、昆虫観察は面白いだろう。小さな庭だけど、そこには宇宙に通じる秘密が隠されている。生き物の世界というのは、そういうもんだ。でも、普通はここまで極端にはならない。単に芸術家というだけでは解けない人間としての秘密もありそうである。
モリの家には多くの人が訪ねてくる。それらの人々との交流をユーモラスに描きながら、映画は進んで行く。映画内で登場人物が深刻な対立におちいるわけではなく、日常とはちょっと違う環境にありながらもユーモラスに日常が進んで行く様を「観察」している。そういう作り方は、沖田監督の脚本・監督作品に共通してる。「南極料理人」「キツツキと雨」「滝を見にいく」「モヒカン故郷に帰る」など大体そんな感じ。「横道世之介」は吉田修一原作の力が大きく一番面白かったと思うが、「モリのいる場所」はまた違った感じの傑作だ。何といっても山崎努と樹木希林が忘れがたい。