尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

新生党の「人生いろいろ」ー93年政局考④

2021年10月15日 23時42分07秒 | 政治
 「55年体制」が終焉を迎えた直接のきっかけは、自民党の羽田派宮沢内閣不信任案に賛成したことである。長く自民党内最大勢力だった竹下派は1992年10月に「羽田派」と「小渕派」に分裂した。羽田派は反政権的姿勢を強めていき、約束していた「政治改革を実現出来なかった」ことから不信任案に賛成した。そのまま離党して「新生党」を結成した。参加したのは衆議院議員36人参議院議員8人合計44人だった。かつて「竹下派七奉行」と呼ばれた面々の中では、羽田孜小沢一郎渡部恒三奥田敬和の4人が参加した。
(新生党結党時)
 新生党の党首には羽田孜が就任し、小沢一郎が代表幹事になった。総選挙では現職35名、新人19名、元職2人が当選し、合計55名の大勢力となった。この選挙結果を見る限り、自民党離党は当時の有権者に受け入れられたと言えるだろう。その後、小沢が中心になって非自民8党派連立の細川護熙政権を成立させた。新生党は外相羽田孜、蔵相藤井裕久、農水相畑英次郎、通産相熊谷弘、防衛庁長官中西啓介と5人が入閣した。社会党6人、公明党4人だが、国政運営上の重要閣僚は軒並み新生党が独占した。自民党にいたら羽田派がこれだけ入閣することはあり得ない。新生党結党は短期的には大成功だったのである。

 細川政権では社会党が与党第一党だったが、政権運営は「与党代表者会議」を牛耳る小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長に事実上握られた。当時この2人を「一・一ライン」と呼んだ。当時の社会党は日米安保条約反対、自衛隊違憲論者が多く、自民党は国会で内閣不統一と攻撃した。小沢らから見れば社会党の内部調整を待っていては、政策決定が遅れると思っただろう。連立内で一番左の社会党は何があっても連立を離脱出来ないと高をくくっていたのかもしれない。しかし、与党代表者会議が実権を持つことに官邸の武村官房長官も反発を強めていき、結果的に社会党・さきがけを自民との連立という奇手に追いやることになる。
(小沢一郎と市川雄一)
 細川首相が93年4月に辞意を表明すると、連立の枠組はそのままに羽田孜外相を首相に推すことになった。連立には自民党を離党した柿沢弘治らの「自由党」(高市早苗が所属していた)や鳩山邦夫らの「改革の会」(石破茂が所属していた)も加わった。しかし、社会党とさきがけは「閣外協力」に止まった。新生、公明、民社などは社会、さきがけを除いて、院内会派「改新」を結成し、社会党は露骨な社会党外しとみなして連立を離脱した。その結果、羽田内閣は過半数を失い少数与党となったため、不信任案可決が避けられなくなった。予算成立後に自ら総辞職して、その後に社会党と新党さきがけが自民党と連立した村山富市内閣が成立した。
(首相指名時の羽田孜)
 当時は小沢一郎に対する忌避感が社会党などに強かった。自民党幹事長時代から豪腕で知られたが、表に立つよりは裏での調整が得意で、入閣したのは第二次中曽根内閣(1985.12.28~1986.7.22)の自治大臣兼国家公安委員長だけである。新生党結党時の記者会見にも欠席し、宮沢内閣の官房長官だった河野洋平は「改革すべきはあの人たちの体質」と述べたという。(ウィキペディアによる。)1993年5月には著書「日本改革計画」を出してベストセラーになった。そこでは新自由主義的な経済政策や防衛力を含めた国際貢献を主張していた。そのため左派リベラル系には小沢と組むよりも河野洋平が新総裁になった自民党の方がマシと考える人が相当いたのである。

 羽田内閣の与党グループは野党転落後に「新進党」を結党した。1994年12月10日のことである。前日に新生党は解党したので、わずか1年半の短い政党だった。そして新進党も96年総選挙に敗北後に内部分裂が深まり、97年12月に解党した。その間、小沢の豪腕、あるいは黒幕的体質に期待したり、失望したりが繰り返される。結果的に新生党結党時の衆院議員36人のうち、半数近い17人が自民党に復党した。地方自治体の首長に立候補したり(青森県知事になった木村守男)、立候補しなかったり(松浦昭)などもいるので事実上半分以上と言える。

 自民党に復党しないものの、小沢と袂を分かった人も多い。首相となった羽田孜はその一人である。1995年の党首選では小沢と羽田が直接争って小沢が勝った。96年総選挙で新進党が敗北すると羽田との対立が深まり、96年12月に羽田らが離党して「太陽党」を結党した。奥田敬和熊谷弘畑英次郎北沢俊美(民主党内閣で防衛相を務めた)など衆参13議員が参加した。このグループの人はその後細川護熙らと民政党を結成し、やがて民主党に合流して自民党には戻らなかった。

 早く自民党に戻ったのは、愛知和男船田元石破茂(93年総選挙は無所属で戦い、後改革の会を経て新進党に参加したものの96年総選挙前に自民に復党)などがいる。船田元は新進党で羽田を支持し敗れた後、一時はさきがけの鳩山由紀夫とともに新党(鳩船新党)を結成しようと目論んだ。船田はリベラル系のイメージがあったためだが、当時新進党所属の参議院議員畑恵との「政界失楽園」が騒がれて、この構想は実らなかった。結局自民党に戻るが、その不倫問題でイメージが低下し、2000年総選挙で落選した。

 新進党解党まで小沢と行動を共にしたものは、大方は小沢と自由党を結成した。その時に自由党に行かなかったのは石井一岡田克也である。岡田は新進党解党に抵抗し、有権者への裏切りだと主張した。その後は民政党を経て、民主党に参加し、2003年の民主・自由の合併で再び小沢と同じ党になる。岡田は以後も民主党系勢力の中心者であり続けている。小沢の自由党は1999年1月に小渕首相の自民党と連立したが、2000年4月に離脱した。この時まで小沢に付いてきた議員の中でも、連立に残って保守党を結成したものが多かった。二階俊博はその一人である。また新進党解党後自由党に参加した野田毅加藤六月扇千景小池百合子西川太一郎らもこの時小沢と離れた。

 小池百合子のように日本新党から新進党、自由党、保守党、自民党となったものもいる。しかし、一応93年政局で新生党に参加した人で考えてみると、現在も政治活動を続けている人は以下のようになる。
自民党に復党したもの
 二階俊博、船田元、石破茂、江崎鐵磨、山本幸三
立憲民主党に所属するもの
 小沢一郎、岡田克也
無所属の参議院議員
 上田清司
地方自治体の首長に転じたため無所属のもの
 西川太一郎
参議院議員だったが、横浜市長選に立候補して落選中
 松沢成文

 一時でも新生党に所属した人で今も政治活動を続けているのは、多分以上10人だと思う。羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、石井一、小沢辰男ら多くの人は亡くなった。長野4区当選の村井仁は93年に離党後、自民に復党し、さらに郵政法案反対で公認されなかった。ところが2006年に田中康夫の対抗馬として長野県知事に擁立されるという浮き沈みの激しい政治人生を送った。振り返って思うのは、小沢一郎への「期待」と「幻想」、「幻滅」と「対立」で多くの政治家の人生が翻弄されたということである。翻弄される方にも問題があるから小沢一郎一人の問題ではないと思う。小沢だから何かしてくれるだろうなどという幻想を一度も持ったことがないから、僕にはよく判らない。

 まだ全体的な評価が難しい「政界の惑星」だったと思う。小沢とは文京6中時代の同級生という西川太一郎でさえ最後は離れた。それでも付いていく人もいる。魅力と迷惑が同居しているのかもしれない。
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