尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

自民党はずっと強いのに、なぜ社会党はなくなったのかー93年政局考⑤

2021年10月17日 22時48分21秒 | 政治
 「55年体制」の時期の自民党政権は、よく「擬似的な政権交代」をしていたと言われる。岸から池田、佐藤から田中、田中から三木といった感じでタイプが違う首相に代わることで、国民に新しさを印象づけた。自民党内に左右の派閥があって様々な合従連衡の中で、目新しさを演出できたのである。一方21世紀の自民党では、森、小泉、安倍と清和会系の首相が続くようになった。それは何故だろうか。

 国際環境の変化も大きく影響しているが、それ以上に党内力学の変化が大きい。要するに「羽田派」離党の影響である。羽田派、小渕派が竹下派にまとまっていた時代には、党内最大の派閥だった。宏池会の宮澤喜一が政権に付けたのも竹下派が支持(というか容認)したからである。羽田派が離党してしまえば、党内力学がグッと右に寄ってしまう。もし羽田派が自民党に残っていれば、20世紀末に羽田政権や加藤紘一政権が成立していたのではないか。「変人」といわれた小泉純一郎は「何度も総裁選に出たけれど、首相になれなかった政治家」、つまり今の石破茂のような存在で終わったのではないか。

 では小沢一郎らは何故離党してしまったのか。そこで目指していたものは何だったのだろうか。そこでは「擬似的な政権交代」ではなく、「二大政党による本格的な政権交代」を目指していたのだと思う。一党支配が続けば、どうしても長期政権の緩みが出て来てスキャンダルが多発する。冷戦終結で「資本主義か社会主義か」というイデオロギー選択は決着した(と当時は思われていた)。それならば、今後は「経済界が支持する成長優先の党」と「労働界が支持する分配重視の党」が交互に政権につく政治体制が望ましい。

 そういう判断だったのではないかと思うし、その発想に意味はあったのかと思う。しかし、現実には自民党が強大さを維持している一方で、自民に反対する勢力は分断されている。冷戦終結とはいっても、東アジアでは冷戦構造が残り続けていたため、冷戦終結の恩恵を得にくかったという問題もある。一方で国内情勢を考えると、想定外の村山政権成立の影響が大きかった。93年8月に細川政権が成立した段階で、その翌年に自民党と社会党の連立政権が出来るなどと考えた人は誰もいなかっただろう。
(自社さ連立、右から橋本龍太郎、村山富市、武村正義)
 現実に94年6月に村山富市政権が成立すると、社会党内や支持者にも一種の高揚感が生じた。まさか社会党首班内閣が自分の生きている間に実現するとは思っていなかった支持者が多かったのである。もともと細川政権成立時の社会党委員長は山花貞夫だった。山花は政治改革担当相として入閣したものの、93年総選挙で社会党が惨敗(136議席から70議席へほぼ半減)した責任を取って委員長を辞任した。後任の村山富市は国対委員長が長い党内右派だが、周囲には小沢一郎への警戒感が強く、連立からの離脱を主導した。

 細川政権時には自民党が社会党の政策は内閣の政策と不一致だと攻撃していた。一方、社会党内では政権入りしても党独自の政策は譲るなという声が強かった。しかし、村山は首相としてはその説明では無理だと判断して、就任直後の国会演説で、日米安保条約肯定原発肯定自衛隊合憲など、旧来の路線から180度の変更を一方的に宣言した。(後に1994年9月の臨時党大会で追認した。)政策変更の内容とは別に、権力の座についたからと突然一方的に政策を変更したやり方は拙劣だった。各地で反基地、反原発などで長く住民運動を続けていた社会党員は突然梯子を外されたのである。

 村山首相は96年1月に辞任し、自民党の橋本龍太郎が後継となった。第1次橋本内閣はもちろん自社さ連立を受け継ぎ、副首相・蔵相に書記長の久保旦が就任した。(この時にさきがけの菅直人が厚生大臣に就任し、不明とされていた薬害エイズの資料が見つかるなどの実績を挙げた。)そして、96年10月に小選挙区比例代表並立制による初めての衆議院選挙が実施された。ところが連立を組んでいながら自社さ各党の選挙協力が成立せず、自民党は前首相の村山富市や衆院議長だった土井たか子の選挙区にも候補者を擁立した。

 社会党は96年1月に社会民主党に党名を変更していたが、この選挙では小選挙区で土井、村山、上原康助、横光克彦の4人しか当選出来ず、比例区の11人と合せて15議席に激減した。新党さきがけは党首の武村と園田博之の2議席だけで、比例区では1議席も獲得できなかった。田中秀征、井出正一なども落選した。小選挙区制を取る以上は自民党と連立を組んでも選挙協力を行わない以上は予想された結果だろう。この結果、両党は閣外協力に転じて、第2次橋本内閣は自民党単独内閣となった。(98年6月閣外協力も解消。)社会党は十分に準備されていない段階で連立を組んでしまって、自らを滅して自民党復権をもたらしたと言える。
(96年1月、社会民主党に党名を変更)
 96年総選挙は自民党と新進党の2大政党の対決と言われた。その中で選挙協力をせずに臨めばリベラル勢力の激減は予想されたことだった。そのため社会党とさきがけの一部議員は生き残りを賭けて新党結成を目論み、民主党(旧民主党)を結成した。鳩山由紀夫と菅直人が共同代表となり「鳩菅新党」と呼ばれた。社会党は一部地区で民主党への組織的合流を決め、民主党の中で生き残った社会党議員は多数にのぼる。北海道の横路孝弘鉢呂吉雄、東京の山花貞夫、愛知の赤松広隆らである。横路は民主党政権で衆院議長となった。

 社民党の大多数が民主党に移行した北海道では民主党の中に社会党議員が残っていく。一方で社民党がそれなりの勢力で残留した九州などでは、その後も民主党勢力が弱く自民党の強力な地盤となっていく。社民党残存勢力が強い地域では、民主党が弱いため自民党が圧倒するという皮肉な結果になったのである。新進党解党後に、小沢一郎らの自由党に移らなかった勢力(羽田、細川、岡田ら)は小党を経て民政党にまとまり、やがて民主党に合同した。このように保守系議員も大量に抱えた民主党は、社会民主主義を名乗ることは出来なかった。

 このようにして、日本では「社会民主主義」勢力が非常に弱体化してしまった。社民主義はもともとはソ連式共産主義に対抗して、議会主義によって富の再分配を目指す。政治、経済体制としては、資本主義の枠内でアメリカとの同盟関係を維持する。ドイツでは1959年にいち早く「ゴーデスベルク綱領」を採択して、階級政党から国民政党へと転換した。その結果、1969年にブラントによる社民党政権が成立した。(それ以前に1966年にキリスト教民主・社会同盟との「大連立」を経験している。)

 そのようなドイツでは今も社会民主党が強大な勢力として存在する。日本では社会党内にプロレタリア独裁を主張する社会主義協会の影響が強く、社民主義への転換が80年代になっても出来なかった。そのことが結果的に社会党、後継の社民党の衰退につながっていると考えられる。社会主義協会はマルクス経済学者の向坂逸郎(さきさか・いつろう)を指導者にしていたが、向坂らはソ連のチェコ侵入(1968年)や、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの国外追放(1974年)を支持していた。70年代の西側諸国では非常に珍しい教条的ソ連信奉者だった。そのような社会党の姿は、今では党内に多様性を容認できない極右勢力を抱え込んでいる自民党を思わせる。
コメント (1)
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