2007年7月場所から大相撲の横綱を務めていた白鵬が引退した。秋場所終了翌日の月曜日に「引退の意向」と大きく報道されたが、正式に引退して年寄「間垣」の襲名が承認されたのは9月30日である。そして10月1日に記者会見が行われた。僕は白鵬が特に好きなわけでもないけれど、間違いなく「不世出の横綱」である。最近は批判的な論調がいっぱいあふれているが、バランスを失していると思う。それは単に相撲だけの問題ではない。
僕はスポーツ中継をよく見ていて、でも特にどこかのチームのファンだとか言うわけでもない。面白いもの、すごいものを見たいだけである。相撲の話は前にも書いたことがあるが、子どもの頃はプロ野球と大相撲しかなかったからファンだった。その後見たり見なかったりして今に至るが、まあ見てる方なんだと思う。白鵬が強かったから、そんなにファンだったわけではない。僕は弱い方を応援したくなるから、強すぎると関心が薄れるのである。それは相撲に限らずすべてのスポーツに言えるし、政治やアートなどでも同じである。
白鵬は近年休場が多くなって批判も受けてきた。数年前から「東京五輪まで頑張る」と言っていた。2018年に亡くなった父ジグジドゥ・ムンフバトがは1964年の東京五輪に出場していた。モンゴル相撲の大選手だった父は、レスリングのモンゴル代表として5回のオリンピックに出場し、1968年のメキシコ五輪では銀メダルを獲得した。だから「2020年の東京五輪」を横綱として迎えたいというのを目標にしたわけである。しかし、東京五輪は一年延期されてしまった。2021年の7月場所に全勝優勝したのを見て、白鵬はもうすぐ引退だと思った。
優勝45回(2位は大鵬32回)、横綱在位84場所(2位は北の湖63場所)、横綱勝利899勝(2位は北の湖670勝)、通算勝利1187勝(2位は魁皇1047勝)、年間勝利数86勝(2回、2位は朝青龍84勝)などなど、記録はもう誰も抜けない大記録ばかりである。一年に6場所しかないんだから、在位記録を抜くためには14年以上横綱じゃないといけない。(白鵬の時代には八百長問題とコロナ禍で2回の本場所中止があった。)
忘れてはいけないのは「一人横綱」が長かったことである。朝青龍が引退(させられた)後の2010年3月場所から、日馬富士が横綱に昇進した2012年9月場所まで、15場所が一人横綱だった。3月11日生まれの白鵬が「宿命」と語った東日本大震災の時、(ちょうど八百長問題で3月場所は中止だった)横綱は一人だった。その後白鵬は被災地を訪れ土俵入りなどを行った。八百長と大震災という大相撲の危機を白鵬が横綱として迎えたのである。相撲ファンのみならず、モンゴルから来た青年が横綱でいたことを覚えていて欲しいと思う。(なお一人横綱は朝青龍の21場所が最長記録。白鵬は日馬富士、稀勢の里、鶴竜が先に引退して最後も2場所一人横綱。)
(稀勢の里に敗れて連勝が63で止まった)
白鵬が横綱に昇進したとき、モンゴルの先輩横綱朝青龍(あさしょうりゅう)の「変格相撲」に対し、本格的な四つ相撲の白鵬に期待する声が高かった。最後は「荒々しい」とか「粗暴」とか批判される「張り手」「かちあげ」が多くなったけれど、それは剛速球投手が年齢を重ねて変化球で生き延びるようなものだろう。白鵬が一番強かった時代は双葉山の「後の先」を現代に蘇らせたような本格的な「横綱相撲」だった。菅内閣の支持率を見れば判るように、人の心は移ろいやすい。皆忘れてしまったのだろうか。
(万歳三唱を観客に求めた白鵬)
白鵬が最後に「万歳三唱」「手拍子」などを観客に求めたのは、僕もどうかと思う。しかし、NHKが優勝力士のインタビューを土俵下で行うようになったことにも問題がある。観客を前にすれば盛り上げたいと思うのも判らないではない。審判に文句を付けるような態度も確かに頂けないが、これは見ていて僕は白鵬が一言言いたくなるのも無理はないと思った。全体的に白鵬を批判する人は「日本の伝統」を「わきまえない」という感じで批判している。つまり森喜朗五輪組織委会長の「わきまえない女」のモンゴル版である。
そういう人に限って「相撲は単なるスポーツではない」と言う。「相撲は神事」などというのだが、そんなのいつの時代の話だろう。どんなものにも時代的な制約はあるが、江戸時代以来相撲はむしろ「興行」だったと言うべきだろう。だから八百長なども起きる。そういうんじゃいけないと「相撲はプロスポーツ」だと改革してきたんだから、勝つために反則以外の技を駆使するのは当然ではないのか。白鵬は天性の資質に努力と研究を重ねて自分の地位を作った。白鵬を越える若い力士が出て来なかったから批判されるほどの長く横綱を保った。
毎日テレビでは大谷翔平がベーブ・ルースを抜くかと大報道を繰り広げている。日本人は大谷が大リーグの記録を更新することを望んでいるらしいが、アメリカ人にしてみれば複雑な思いもあるだろう。日本人が「国技」と呼ぶ大相撲もすっかり外国人が活躍するようになっている。それでやむを得ないと僕は思うのだが、「日本の伝統をわきまえろ」的な圧力が外国出身者には掛かってくる。そういう日本社会の姿が見えてくる。様々な問題で「わきまえろ」という声が聞こえてくるのが日本だなあと思う。
僕はスポーツ中継をよく見ていて、でも特にどこかのチームのファンだとか言うわけでもない。面白いもの、すごいものを見たいだけである。相撲の話は前にも書いたことがあるが、子どもの頃はプロ野球と大相撲しかなかったからファンだった。その後見たり見なかったりして今に至るが、まあ見てる方なんだと思う。白鵬が強かったから、そんなにファンだったわけではない。僕は弱い方を応援したくなるから、強すぎると関心が薄れるのである。それは相撲に限らずすべてのスポーツに言えるし、政治やアートなどでも同じである。
白鵬は近年休場が多くなって批判も受けてきた。数年前から「東京五輪まで頑張る」と言っていた。2018年に亡くなった父ジグジドゥ・ムンフバトがは1964年の東京五輪に出場していた。モンゴル相撲の大選手だった父は、レスリングのモンゴル代表として5回のオリンピックに出場し、1968年のメキシコ五輪では銀メダルを獲得した。だから「2020年の東京五輪」を横綱として迎えたいというのを目標にしたわけである。しかし、東京五輪は一年延期されてしまった。2021年の7月場所に全勝優勝したのを見て、白鵬はもうすぐ引退だと思った。
優勝45回(2位は大鵬32回)、横綱在位84場所(2位は北の湖63場所)、横綱勝利899勝(2位は北の湖670勝)、通算勝利1187勝(2位は魁皇1047勝)、年間勝利数86勝(2回、2位は朝青龍84勝)などなど、記録はもう誰も抜けない大記録ばかりである。一年に6場所しかないんだから、在位記録を抜くためには14年以上横綱じゃないといけない。(白鵬の時代には八百長問題とコロナ禍で2回の本場所中止があった。)
忘れてはいけないのは「一人横綱」が長かったことである。朝青龍が引退(させられた)後の2010年3月場所から、日馬富士が横綱に昇進した2012年9月場所まで、15場所が一人横綱だった。3月11日生まれの白鵬が「宿命」と語った東日本大震災の時、(ちょうど八百長問題で3月場所は中止だった)横綱は一人だった。その後白鵬は被災地を訪れ土俵入りなどを行った。八百長と大震災という大相撲の危機を白鵬が横綱として迎えたのである。相撲ファンのみならず、モンゴルから来た青年が横綱でいたことを覚えていて欲しいと思う。(なお一人横綱は朝青龍の21場所が最長記録。白鵬は日馬富士、稀勢の里、鶴竜が先に引退して最後も2場所一人横綱。)
(稀勢の里に敗れて連勝が63で止まった)
白鵬が横綱に昇進したとき、モンゴルの先輩横綱朝青龍(あさしょうりゅう)の「変格相撲」に対し、本格的な四つ相撲の白鵬に期待する声が高かった。最後は「荒々しい」とか「粗暴」とか批判される「張り手」「かちあげ」が多くなったけれど、それは剛速球投手が年齢を重ねて変化球で生き延びるようなものだろう。白鵬が一番強かった時代は双葉山の「後の先」を現代に蘇らせたような本格的な「横綱相撲」だった。菅内閣の支持率を見れば判るように、人の心は移ろいやすい。皆忘れてしまったのだろうか。
(万歳三唱を観客に求めた白鵬)
白鵬が最後に「万歳三唱」「手拍子」などを観客に求めたのは、僕もどうかと思う。しかし、NHKが優勝力士のインタビューを土俵下で行うようになったことにも問題がある。観客を前にすれば盛り上げたいと思うのも判らないではない。審判に文句を付けるような態度も確かに頂けないが、これは見ていて僕は白鵬が一言言いたくなるのも無理はないと思った。全体的に白鵬を批判する人は「日本の伝統」を「わきまえない」という感じで批判している。つまり森喜朗五輪組織委会長の「わきまえない女」のモンゴル版である。
そういう人に限って「相撲は単なるスポーツではない」と言う。「相撲は神事」などというのだが、そんなのいつの時代の話だろう。どんなものにも時代的な制約はあるが、江戸時代以来相撲はむしろ「興行」だったと言うべきだろう。だから八百長なども起きる。そういうんじゃいけないと「相撲はプロスポーツ」だと改革してきたんだから、勝つために反則以外の技を駆使するのは当然ではないのか。白鵬は天性の資質に努力と研究を重ねて自分の地位を作った。白鵬を越える若い力士が出て来なかったから批判されるほどの長く横綱を保った。
毎日テレビでは大谷翔平がベーブ・ルースを抜くかと大報道を繰り広げている。日本人は大谷が大リーグの記録を更新することを望んでいるらしいが、アメリカ人にしてみれば複雑な思いもあるだろう。日本人が「国技」と呼ぶ大相撲もすっかり外国人が活躍するようになっている。それでやむを得ないと僕は思うのだが、「日本の伝統をわきまえろ」的な圧力が外国出身者には掛かってくる。そういう日本社会の姿が見えてくる。様々な問題で「わきまえろ」という声が聞こえてくるのが日本だなあと思う。