尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

栄光の「93年初当選組」ー93年政局考②

2021年10月12日 22時02分23秒 | 政治
 「93年政局」とは直接関係ないとも言えるけれど、「1993年衆議院選挙初当選議員」の顔ぶれがあまりに凄いので、そのことを紹介して考えてみたい。そのことは政界ウォッチャーにはよく知られていることだが、一般には意識していない人が多いかもしれない。何しろ、あの人も、あの人も、この人も…与野党越えて「93年初当選組」なのである。例えば、現在の首相である岸田文雄がそうだし、憲政史上最長の総理大臣となった安倍晋三もそうである。野党を見れば立憲民主党代表枝野幸男や共産党委員長の志位和夫もそうなのである。
(93年当選直後の岸田首相)
 民主党政権で総理大臣を務めた野田佳彦もそうだし、そもそも日本新党から当選一期で連立政権の首相となった細川護熙も(参院議員の経験はあるが)衆議院には初当選だった。だから「93年初当選組」は現在までに4人の総理大臣を生んだ「栄光の初当選組」なのである。他にも現在の東京都知事である小池百合子や名古屋市長の河村たかしもこの時衆議院に当選していた。先の自民党総裁選候補4人の中で岸田以外でも、高市早苗野田聖子は93年組である。現在の外務大臣茂木敏充もいるから、93年組総理の人数はもっと増える可能性がある。

 何で「93年初当選組」に多くの人材が集中したのだろうか。それにはいくつかの理由が考えられる。昭和天皇が1989年に亡くなり、長かった「昭和」が「平成」になったばかり。同じ頃にバブル崩壊冷戦終結が重なり、新しさを求めるような時代だった。だから「新」が付く政党がこの時にはブームを呼んだ。「新生党」「日本新党」「新党さきがけ」である。新党ブームで当選した議員が後に重要な役を果たすわけである。日本新党で当選した野田佳彦前原誠司枝野幸男などが代表例である。
(当時の枝野幸男)
 また保守政界の代替わりもこの時期に集中した。安倍晋太郎没後に安倍晋三が当選したのが代表である。田中角栄は1990年に引退し、長女の田中真紀子が1993年に初当選した。福田赳夫も1990年に引退し、福田康夫は90年に初当選した。渡辺美智雄は1995年に死去し、96年に渡辺喜美が当選する。70年代以後の保守政治を担った政治家たちが引退、死亡の時期を迎え、議席は「世襲」されたのである。岸田文雄(岸田文武)、塩崎恭久(塩崎潤)、林幹雄(林大幹)、浜田靖一(浜田幸一)、小此木八郎(小此木彦三郎)、栗原裕康(栗原裕幸)、稲葉大和(稲葉修)などが93年に世襲で当選している。カッコ内は父親。

 もう一つ隠れた理由として社会党の凋落が挙げられる。新党ブームの直前には社会党ブームがあった。1986年に土井たか子が社会党委員長に就任したためである。89年参院選、90年衆院選では女性候補が「マドンナブーム」と話題になった。90年に社会党は83議席から136議席へ53議席増になった。(自民も20議席減らしたものの過半数を確保した。社会党の議席増は公明、民社、共産の議席減をもたらしたのである。)社会党は90年衆院選で56名(推薦を入れると59名)の新人議員が当選した。その中には輿石東赤松広隆仙谷由人らも含まれるが、多くは93年に落選した。社会党から日本新党などにブームが移り変わったためである。

 しかし、93年当選組の政治遍歴も厳しいものがあった。96年には選挙制度が変わって小選挙区比例代表並立制となった。日本新党から新進党に所属した野田佳彦は96年には落選した。新進党は小選挙区と比例の重複を認めなかったため、自民の田中昭一にわずか105票差で敗北したために比例で復活できなかったのである。また2005年には郵政解散、2009年の民主党政権誕生、2012年の自民党政権復帰と21世紀には大きな政治ドラマが続き、それを生き延びるのは政治家にとって大変なことだった。オセロゲームのように勝者敗者が入れ替わり、政治家が育たなかった時代を生き抜いたのが93年初当選組に多かったのである。

 それでも中央政界から転じて地方自治体の首長に転じた政治家が多いのも特徴だ。現職では小池百合子(東京都知事)、中村時広(愛媛県知事、元松山市長)、河村たかし(名古屋市長)、西川太一郎(東京都荒川区長)がいる。元職としては上田清司(埼玉県知事)、松沢成文(神奈川県知事)、横内正明(山梨県知事)、中田宏(横浜市長)、山崎広太郎(福岡市長)、山田宏(東京都杉並区長)など多彩な顔ぶれがいた。
(初当選時の小池百合子)
 党首級では公明党代表を務めた太田昭宏、民主党代表を務めた海江田万里もいる。公明党では2012年以後に連立政権で国土交通相として入閣した太田昭宏石井啓一赤羽一嘉斉藤鉄夫はいずれも93年組。また21世紀の外務大臣には田中真紀子前原誠司玄葉光一郎岸田文雄茂木俊充と93年初当選組が多いのも特徴だ。他にも93年初当選組には様々な議員がいるが、全員を書いていても長くなりすぎるからもうオシマイ。

 時代の変化の中で、最後の選挙制度で実に多様な議員が誕生した。それが幾多の政治ドラマを産んだ。ここでは評価を抜きに書いてきたけれど、改めて名前を確認すれば、どうも日本を悪くした政治家が多い感じもする。パフォーマンス優先のポピュリスト的政治家を大量に生み出したのが、1993年の衆議院選挙だったかもしれない。
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「55年体制」から「93年体制」へー93年政局考①

2021年10月11日 23時09分28秒 | 政治
 30年ぐらい前まで日本の政治を「55年体制」と呼ぶことが多かった。じゃあ、それはいつまで続いて、今は何体制なんだろうか。衆議院選挙が近づいた現時点で、そのことを考えてみたい。戦前の日本には「政友会」「民政党」という2大政党があり、それ外に社会主義的な「無産政党」が何党かあった。戦争中はすべての政党が解散して「大政翼賛会」に一本化されるが、敗戦とともに多くの政党が復活する。結局いろいろあって、保守系では「自由党」「民主党」にまとまり、1955年11月に合同して「自由民主党」が成立した。

 一方無産系は戦後になって大同して「日本社会党」を結成し、1947年には第一党になって片山哲内閣が成立した。しかし、日米安保条約をめぐって1951年に左右に分裂し、「左社」「右社」として選挙も戦った。反戦を強く訴えた左社が党勢を伸ばし、1955年の総選挙では左社89、右社67と合計で衆議院の3分の1を確保した。その結果保守党が掲げる改憲を阻止できることになり、合同機運が高まり1955年10月に再統一した。また日本共産党も1950年に分裂して武装闘争路線を取ったが、1955年の六全協で統一指導部が再建された。

 このように戦後政治史の主要政党が1955年に出そろった。その当時は日本でも2大政党政治になるなどと言われたが、その後の選挙結果はむしろ「自民党一党体制」の始まりとも言えた。そのため「1½政党制」とも呼ぶ人がいたぐらいである。当時の衆議院の選挙制度は後によく「中選挙区制」と呼ばれた制度だった。それは一つの選挙区から3~5人の当選者を選ぶという仕組みだった。(奄美諸島は1953年まで米国統治下にあったため、返還後1人区となった。92年廃止。「一票の格差」を解消するために、2人区、6人区も作られた。)

 ある程度大きな選挙区になるので、地域の中心的な町が複数含まれることになる。各地区を代表する自民党候補が複数当選し、社会党は1人か2人しか当選できない。社会党が多数の候補を立てても共倒れしてしまう。そのため社会党は全員当選しても衆議院の過半数に満たない候補しか立てられなかった。つまり、選挙前から自民党政権が続くことが決まっていた。この「自民政権永続」を保証する選挙制度を、今でも「前の方が良かった」と評価する左派・リベラル系論者がいる。それは各選挙区で野党系議員が1人か2人は当選することから、合計で野党が衆議院の3分の1を確保出来るからである。つまり、自民党政権は続くが憲法改正は発議できない。

 その方が良いと考えるわけだが、それはおかしいと考える人もいた。「政権交代が可能な選挙制度」にしなければならないというわけである。そこには国際的な変動、冷戦終結湾岸戦争も関わっているが、今はそのことには触れないことにする。そこで国内では「政治改革」というテーマが浮上する。89年にリクルート事件が発覚し、さらに東京佐川急便事件など政治資金をめぐるスキャンダルが頻発し、自民党に代わる政権を求める声が広がっていたということも大きい。旧竹下派が分裂し小沢一郎らの「羽田派」は特に強く政治改革を主張し、当時の宮澤喜一内閣が改革に消極的だとして反発を強め、野党の提出した不信任案に賛成した。
(不信任案に賛成した小沢一党、羽田孜ら)
 ちょっと前提となる出来事の説明で長くなってしまったが、その結果「羽田派」は自民党を脱党して「新生党」を結成した。また武村正義鳩山由紀夫らは不信任案には反対したものの、離党して「新党さきがけ」を結成した。不信任案は可決され衆議院が解散され、その後は自民党が過半数を割り込み、8党派連立で細川護熙政権が誕生した。以後、ごく一部の短い時期を除き、連立政権となる。つまり、「自民党一党時代」から「連立政権時代」に日本政治が転換した。これをもって、僕は「1993年体制」と読んでいいのではないかと思うが、未だ政治学ではそういう概念はないようである。
(首相に指名された細川護熙)
 簡単に連立の歴史を振り返っておくと以下のようになる。
細川護熙内閣 1993~1994 日本新党、新党さきがけ、社会党、新生党、公明党、民社党、社民連、民主改革連合
羽田孜内閣  1994    細川内閣から社会党が抜け、さきがけが閣外協力
村山富市内閣 1994~1996 自民党、社会党、新党さきがけ
橋本龍太郎内閣1996~1998 自民、社会(社民)、さきがけ (1996.11から社さ閣外協力、1998.6連立離脱)
小渕恵三内閣 1998~2000 自民、自由、公明 (1999.1まで自民単独、99.1~10 自由党と連立、99.10 公明党が連立参加、2000.4自由党連立離脱、分裂して保守党が連立残留)
森喜朗内閣  2000~2001 自民、公明、保守
小泉純一郎内閣2001~2006 自民、公明、保守(後保守新党、2003.11自民に合流)
安倍晋三内閣 2006~2007 自民、公明
福田康夫内閣 2007~2008 同上
麻生太郎内閣 2008~2009 同上
鳩山由紀夫内閣2009~2020 民主、社民(2020.5連立離脱)、国民新党
菅直人内閣  2010~2011 民主、国民新党
野田佳彦内閣 2011~2012 民主、国民新党
安倍晋三内閣 2012~2020 自民、公明
菅義偉内閣  2020~2021 自民、公明
岸田文雄内閣 2021~    自民、公明

 ちょっと長くなったが、要するに1998年6月から1999年1月までのわずか半年間だけ自民党単独内閣だっただけなのである。しかも、1998年の参院選で自民党は大敗したため、小渕内閣は当初参議院で過半数を持っていなかった。(参議院の首班指名は民主党の菅直人になった。憲法の規定で衆議院指名の小渕が首相になった。)何とか参議院の過半数を獲得するため、当時の野中官房長官は「ひれ伏してでも」と述べて、小沢一郎らの自由党を連立に参加させた。自由党だけでは過半数にならないため、99年10月には公明党も連立に参加した。当時は「自自公連立」と呼ばれていた。

 今では自民、公明の連立が長くなって当たり前のように思ってしまうが、当初は自民内に反創価学会の宗教票も多いため微妙なものがあった。そのため自由党をはさんで三党連立という形を取ったのである。2009年の民主党政権では民主党が過半数を獲得していたし、近年の自民党も単独で過半数を確保している。しかし、今や連立が常態化しているのは何故だろうか。「小選挙区」と「比例代表区」が両方あるという点で、衆参の選挙制度は共通している。比例区があるため参院では過半数獲得が難しい。小選挙区があるため、衆議院でも安定した票を持つ小党の協力が欲しい。そういう動機で何年も続けている間に連立政権に違和感が薄れたのだろう。

 「55年体制」は1993年に崩れて、1993年からは連立政権が常態化する「93年体制」に移行した。僕はそう考えているのだが、さらに93年選挙の重大性が幾つかある。それを今後考えていきたい。ところで先にノーベル物理学賞受賞の真鍋淑郎氏の「モデリング」の重要性という言葉を紹介した。それは自然科学に止まらないとも書いた。「現代」は自分もその中で生きているので、どういう時代かが見えにくい。特に政治の問題は避けている人もいるので、10年前、20年前のことも忘れられやすい。そこで年長世代としては、若い世代が少しでも現在地の見通しを付けられる手助けをするべきだと思う。今回書いている趣旨はそのようなもので、特に「93年体制」という言葉に固執するわけではない。
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映画「由宇子の天秤」、正義の秤は揺れ動く

2021年10月10日 21時15分04秒 | 映画 (新作日本映画)
 春本雄二郎監督・脚本・編集の「由宇子の天秤」という映画は要注目。春本雄二郎(1978~)監督は「かぞくへ」(2016)という映画を作った監督だが、僕は見ていない。「由宇子の天秤」はそれ以前から書いていたオリジナル脚本を満を持して映画化したもので、ベルリンやプサンなど世界各地の映画祭で好評を得た。152分もある長い映画だけど、長さは感じない。今年の日本映画の収穫と言って良い作品だと思う。

 ドキュメンタリー映像を作っている木下由宇子瀧内公美)はある女子高生自殺事件を追っている。遺族に取材を積み重ねるが、遺族は学校の対応以上に報道被害に怒っている。しかしテレビ局側は身内批判のような部分を削って欲しいという。関係者の閉ざされた心を解きほぐして何とか真相を追求してきた由宇子は精一杯抵抗するのだったが…。一方、由宇子の父政志光石研)は学習塾を開いて男手一つで由宇子を育ててきた。今では時々由宇子も教えていて、ある日テストをしているとカンニングしている生徒が目に付く。それが小畑萌(めい=河合優実)で、その夜塾で倒れて家に送っていくことになる。
(テストをやっている萌)
 萌は同じく父と二人暮らしだが、部屋はものすごく散らかっていて、ガスも止められている。そして由宇子は萌から驚くべき告白を聞いてしまう。それは塾の存立に関わる出来事で、取材した相手のようにネットで取り沙汰されると自分の仕事にも関わるかもしれない。自殺の真相を追究してきた由宇子だが、自分の身に降りかかっても正義を貫けるのだろうか。この前に見た「空白」は実に鬱陶しい映画だったが、それでも登場人物は主観的には間違ってはいない行動をすることで衝突する。しかし、「由宇子の天秤」の登場人物の多くは、それはまずいでしょという行動を取っている。そこが人間なのかもしれないが。
(木下塾の父と娘)
 ミステリー的に何が真相か、どんでん返しを仕掛けつつ進行するが、やはりカタストロフィに至ってしまう。仕事においても塾での問題においても。「正義の天秤」はどちら側に揺れるのか。自分の問題かどうかに関わらず、由宇子は判断を誤っている。それは何故だろうか。3年前の女子高生自殺事件に関しては、二次的な証言としてしか描かれないから観客に真相は見抜けないと思う。しかし、塾で起きる萌の問題では由宇子の判断の誤りは決定的だと思う。その様子を野口健司のカメラがじっくりと映し出す。
(春本雄二郎監督)
 春本雄二郎は松竹京都で「鬼平犯科帳」など時代劇の助監督を務めてきたという。すでに3作目「サイレン・バニッシズ」が完成していてプサン映画祭で上映されたらしい。「由宇子の天秤」には疑問点もあるが、大変な注目株だと思う。製作に片渕須直監督が参加している。優れたシナリオとともに、撮影や照明(根本伸一)の貢献も大きい。滝内公美は「彼女の人生は間違いじゃない」「火口のふたり」も難役だったけれど、今回の方がはるかに大変なんじゃないだろうか。由宇子には疑問もあるが、それを演技と感じさせない。

 萌役の河合優実(2000~)は最近いろんな映画に出ているが全く違った印象で驚く。「喜劇愛妻物語」ではうどん打ちの高校生、「佐々木、イン、マイマイン」では佐々木の死体を発見する苗村、「サマーフィルムにのって」ではハダシ監督の友人ビート板。今回はひたすら恵まれない女子高生だから判らなかった。「」というタイプは教師をしてれば時々出会うと思うが、捉えどころがなくウソばかりにも見えるし、逆に信じてあげなければとも思わせられる。対応が難しいタイプで、由宇子も困惑するが対応は失敗した。

 ところで冒頭で取材する学校は公立だろうか私立だろうか。教育委員会や自治体の責任問題に全く言及されないから、恐らく私立学校なのかもしれないと思って見た。自殺生徒が非常勤講師の先生と交際していたらしいという情報も出てくる。非常勤講師は部活は持たないし、授業が終われば帰るから残業もない。非常勤講師の母親は、子どもが学校の勤務が大変で、学年主任も取り合ってくれないと言ってたと証言する。

 その時点で僕は疑問を持ったが、私立の場合はちょっと違うのかなと思ったりもした。その僕の疑問は実は真相につながる疑問だったと後で判る。僕には驚きの展開はなかったが、登場人物の描き方がとても自然で、まさにドキュメンタリーのようだった。ただ、小声でしゃべる登場人物が多くて、僕には聞き取れないところもあり、「サウンド・オブ・メタル」のようにバリアフリー字幕があればいいのにと思った。
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映画「サウンド・オブ・メタル」、難聴者の描き方

2021年10月08日 22時21分00秒 |  〃  (新作外国映画)
 「サウンド・オブ・メタルー聞こえるということー」(ダリウス・マーダー監督)というアメリカ映画が公開された。宣伝や紹介がほとんどないから、知らない人が多いと思う。アメリカでは非常に高く評価され、アカデミー賞作品賞にノミネートされた他、6部門にノミネートされ編集賞音響賞を受賞した。他にも主演男優賞、助演男優賞、脚本賞にノミネート。僕はこの映画をずっと見たいと思っていた。アメリカでの高評価のためではなく、「難聴」をテーマにした映画だからである。副題に「聞こえるということ」とあるように、本格的に「聴覚」をテーマにする映画は珍しい。しかし、描き方には問題が多い。

 主人公はルーベン・ストーンリズ・アーメット)というドラマーである。冒頭に大音量のロックが流れてくる。ルーベンは恋人でもあるルーオリヴィア・クック)とバンドを組んで、全米を公演している。大きなトレーラーに住んで全米を周り、車内で音響処理も出来るようになっている。そんな暮らしを続けていて、ある日急に大きな耳鳴りがして音が聞こえなくなった。しばらくは秘密にしているが、ドラムがメチャクチャになってルーに気付かれる。実はほとんど聞こえていないんだと。

 ルーは病院に行けと勧めて、ルーベンの聴力が非常に落ちていることがはっきりする。そこで「内耳」のインプラント手術があると知らされる。歯だけじゃなく耳にもインプラントがあるのか。しかし、その手術は保険もきかず非常に高額だと言われる。彼らはなかなか人気だったようだが、もう公演は継続できない。聴覚が非常に落ちたルーベンは聴覚障害者の自助グループを紹介される。そこは教会に援助された「ろう者」のための場所で、映画では「デフ・コミュニティ」と表現されている。ここら辺の展開は僕には疑問が多い。

 僕は「耳鳴り」がひどくなって病院に行ったことがある。「耳鳴り」というけど、「突発性難聴」である。難聴だと思ってなかったのだが、検査してみると確かに聴力が落ちていた。「突難」と呼ぶらしいが、原因ははっきりしない。もちろんはっきりする場合もあって、一番深刻なのは脳腫瘍によって聴覚神経を司る脳の部位が正常に作動しない場合である。この場合は「障害」では済まず生命に影響する。だから一応MRI検査を勧められた。保険適用だが結構高額なので、ルーベンには無理だったのかもしれないが、何故アメリカでそれをやらないか疑問。
(ルーベンとルー)
 映画ではルーベンの「耳鳴り」を大音響で表現している。それはキーンとするような音で、経験したことがある人もあるだろう。でも耳鳴りは外部からは確認できない。耳鼻科で検査しても、医者が耳鳴りを聞き取れる装置は存在しない。言ってみれば耳鳴りは主観的な世界にしか存在しない。空気の振動を感受して脳に伝達する神経のどこかに異常が生じているのだろう。加齢による劣化、あるいは細菌、ウイルス等による炎症などで、聴覚神経の誤作動が起きているということだろう。

 原因が不明なのではっきりとした対症療法は出来ないが、現在のところ「ステロイド」療法が主流だと思う。炎症や免疫を抑える目的で使用され、耳鳴りも免疫系の疾患の一つの現れと考えられるからだ。ルーベンの聴力低下は激しいが、それまで公演に継ぐ公演の連続で落ち着いた家もなかったのだから、まずは入院してステロイド療法を行うのが普通じゃないだろうか。僕も入院を勧められたが、そこまでする症状でもないので、毎日点滴10日間になった。結局はあまり効かないまま副作用の方が大きくなって中止したが、ルーベンにまず必要なのはステロイド療法ではないのか。「突難」は本人の認識では病気であって障害ではない。

 デフ・コミュニティではリーダーのジョー(ポール・レイシー=アカデミー助演男優賞ノミネート)が中心になっている。彼はヴェトナム戦争中の爆発で聴力を失い、手話と口話(健聴者の口の動きを読む)でコミュニケーションを取ることが出来る。ルーベンは最初はなじめないが、やがて子どもたちと親しくなる。しかし秘かにジョーのパソコンをのぞいていて、ルーがパリ公演で受けたことを知る。自分も手術を受けて復帰したいと思い、トレーラーを売って人工内耳を付ける。ジョーからは健常者に復帰しようとするルーベンがコミュニティにいては困ると追い出される。ルーベンは苦労してルーの家を訪れるけれど…。

 人工内耳は調節が難しく、ルーベンも苦労している。それは空気振動を感受するものではない。聾の方の内耳に電極を埋め込み、周囲の聴神経を直接に電気刺激して聴覚を取り戻す装置だという。コンピュータと電池を頭に埋め込むようなものである。日本では保険が適用されるらしい。ルーベンはきちんと治療すれば、もう少し聴力が戻った可能性があると思う。その上で補聴器を使えば、ドラマーとしては無理かもしれないが健聴者の社会でやっていけるのではないか。どうもそこら辺の描き方、難聴=障害者というとらえ方に疑問がある。確かに音響処理などに優れたものがあるが、どうも疑問を感じたのだった。
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真鍋淑郎氏のノーベル物理学賞受賞を考える

2021年10月07日 22時37分27秒 | 社会(世の中の出来事)
 2021年のノーベル物理学賞真鍋淑郎(まなべ・しゅくろう)氏ら3人に贈られることが決まった。真鍋氏は90歳だが、今も米国プリンストン大学上級研究員だという。真鍋氏とドイツのクラウス・ハッセルマン氏は「地球の気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」が受賞理由だった。もう一人のイタリアのジョルジュ・パリーシ氏は「原子から惑星のスケールまでの物理システムの無秩序と変動の相互作用の発見」が受賞理由である。気候などの複雑な現象を解明する理論作りに貢献したということらしい。
(真鍋淑郎氏)
 2014年に書いた「ノーベル地学賞はないのだろうか」という記事が最近読まれている。そこで僕は「地球科学そのものも物理現象で起きているわけだから、一応は物理学賞で対応できないわけではない。(たまに地学分野に近い受賞がないわけではない。)」と書いた。しかし気象学に近いような受賞は1948年のエドワード・アップルトン氏(イギリス)以来らしい。(受賞理由は「上層大気の物理的研究、特にアップルトン層の発見」となっている。)日本の高校理科の「地学」には宇宙分野が含まれているので、その意味で地学分野の受賞はあっても、今回のように気候変動がノーベル賞の対象になると予想した人は少ないだろう。

 記者会見での紹介によれば、真鍋淑郎氏は「気候変動問題のマイケル・ジョーダン」なんだそうだ。しかし僕はマイケル・ジョーダンは知っているが、真鍋淑郎は知らなかった。翌日の天気予報を見ていたら、各局の気象予報士が気象学の本には必ず載っている人だと言っていた。皆は知っていたのだろうか。1995年には朝日賞を受賞しているのだから、日本でも業績は知られていたのだ。もう25年も前だから、65歳での受賞である。その頃の朝日賞を調べてみると、野依良治氏や小林誠益川敏英氏など後にノーベル賞を受賞する人が受賞している。

 1995年の受賞者は、谷川俊太郎丸木位里・丸木俊桂米朝大林太良真鍋淑郎廣川信隆の6氏である。(他にスポーツ特別賞として青木半治氏。)大林は日本の神話学の第一人者である。丸木夫妻はもちろん「原爆の図」の画家で、廣川氏は「神経細胞骨格と細胞内の物質輪送に関する先駆的研究」で受賞している。こうしてみると、自然科学分野だけ知らないなと思う。

 それは今年(2020年)も同様で、細野晴臣森山大道蔡兆申・中村泰信望月拓郎の4件5人だが、前の二人しか知らない。1929年に始まった第1回朝日賞からして、坪内逍遥栖原豊太郎前田青邨の3人で真ん中の栖原氏だけ知らない。「特超高速活動写真撮影機の発明製作」が受賞理由になっている。これが自然科学、特に技術的な発明などにつきまとう運命なんだろう。
(ノーベル物理学賞の発表風景)
 真鍋氏はアメリカ在住でアメリカ国籍も取っている。ノーベル賞サイドの発表では、当然USAの学者となっている。記者会見での応答が興味深かったが、日本では「協調性」がないと生きていけない、自分には無理だと答えていたのが興味深かった。日本の「出る杭は打たれる」風土を「出る杭を伸ばす」社会に変えていかないといけない。それにしても真鍋氏の場合、1958年に渡米したのであって「頭脳流出」などと言う段階ではない。日本はまだまだ貧しく、東大の大学院であってもコンピュータを自由に使用するなどできないに決まってる。アメリカへ移って研究を進めて業績を上げたのは、人類の利益にかなう決断だった。

 そして近年の理系ノーベル賞受賞者が皆口にする「日本の現状」への苦言を真鍋氏も述べている。「最近の日本の研究は、以前に比べて好奇心を持って研究することが少なくなっているように思います。日本では、科学者が政策を決める人に助言する方法、つまり、両者の間のチャンネルが互いに通じ合っていないと思います。米国はもっとうまくいっていると思う。」というのは重要だ。岸田新政権は日本学術会議の会員任命拒否問題を解決する意思がないようだ。そこら辺から解決しなくてはいけないのだから、日本で生きるのはしんどい。
(若き日の真鍋氏)
 朝日新聞10月8日付に『福岡伸一さんが読み解く「地球温暖化の予測」』という解説記事が掲載されている。これが非常に興味深かった。特に日本気象学会の機関誌「天気」に載ったインタビュー(1987年)の内容が味わい深い。苦労の連続を振り返りながら、最後に「理論ばかりでは自然科学にならないし、観測をやってもモデリングをやらねばメカニズムの理解はできない。この三つが一体になって研究しなければ、グローバルな環境の研究は進みません。」を福岡氏は「至言です」と絶賛する。

 僕はこの言葉は、自然科学のみに止まるものではないと思う。理論物理学者武谷三男三段階論にも通じるかなと思う。それは量子力学のケースであるが、現象論的段階実体論的段階本質論的段階の三段階で理解するべきだという考え方である。これは何も自然科学に止まらず、歴史学においても「史料」と「理論」の中間に「モデリング」がなければ、単なる理論のあてはめか、史料の羅列になってしまう。「モデリング」にあたるものは、人文・社会科学にも必要だし、ある意味日常生活にも大事なことだと思う。この福岡氏の記事は是非探して読んで欲しいと思う。
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澤井信一郎、さいとう・たかを、内橋克人等ー2021年9月の訃報

2021年10月06日 22時32分08秒 | 追悼
 2021年9月の訃報特集。9月の訃報ではジャン=ポール・ベルモンド色川大吉を別に書いた。
 映画監督の澤井信一郎が9月3日死去、83歳。1984年に公開された薬師丸ひろ子主演の「Wの悲劇」には驚かされた。そもそもの原作は夏樹静子のミステリーだが、それは劇中劇になっていて蜷川幸雄が演出している。主筋はその周辺という脚本の工夫がすごい(澤井と荒井晴彦の共同)。松田聖子主演の「野菊の墓」(1980)がデビュー。1985年の「早春物語」は原田知世主演だから、僕はついアイドル映画の監督と思って当時はあまり見てなかった。その後の作品に「ラブ・ストーリーを君に」「福沢諭吉」「わが愛の譜 滝廉太郎物語」「時雨の記」などがある。東映出身で「昭和残侠伝 死んで貰います」などの助監督をしたし、トラック野郎シリーズや「麻雀放浪記」などの脚本を書いたことも忘れられない。
(澤井信一郎)
 「ゴルゴ13」で知られる漫画家さいとう・たかをが9月24日死去、84歳。本名斉藤隆夫。貸本漫画からのスタートで、「劇画」というジャンルを確立した世代になる。「ゴルゴ13」は1968年から連載が開始され、ギネス記録になっている。冷戦終結を生き延びたのに、コロナ禍で休載したという。死後も連載が続くというが、プロダクションで分業するシステムが完成している。他に「無用ノ介」「鬼平犯科帳」など。名誉都民だった。
(さいとうたかを)
 虫プロのアニメ映画の中心だった山本暎一が9月7日死去、88歳。1961年に設立された手塚治虫の虫プロに参加。アニメ映画「ある街角の物語」制作の中心となった。テレビの「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」などに関わったが、それ以上に虫プロが大人向けアニメとして作った「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」の監督を務めたことで知られる。当時は不評だったが今見るとどうなんだろう。虫プロ倒産後は「宇宙戦艦ヤマト」製作に参加した。1989年に「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」を書いている。
(山本暎一)
 経済評論家の内橋克人が1日死去。89歳。神戸新聞社記者を辞めて、フリーとなって「匠の時代」シリーズで知られた。高度成長を支えた現場技術者を描くというが、サンケイ出版から出ていたこともあり僕は高度成長ヨイショ本かと思って敬遠していた。しかし、その後の内橋氏は市場原理主義、構造改革批判の立場を強めていった。21世紀には「共生経済」を展望した。しかし、全然読んでないのでちゃんと評価することができない。
(内橋克人)
 漫才コンビ「正司敏江・玲児」で人気だった正司敏江が9月18日死去、80歳。夫の玲児と組んで「どつき漫才」で人気を得た。離婚後もコンビを継続し、玲児が2010年に死去後も一人で芸能活動を続けていた。
(正司敏江、右=玲児)
 1975年から79年に活動したフォークデュオ「」のメンバーだった大久保一久が9月12日死去、71歳。それ以前に「」に所属していたが、1975年に「かぐや姫」の伊勢正三と「」を結成した。最初に出した「22才の別れ」が大ヒットした。「風」解散後はソロ活動をしていたが、1983年に休止して薬剤師として勤務した。
(大久保一久、若い頃)
 自民党衆議院議員で、元復興相、自民党総務会長の竹下亘(わたる)が9月17日死去、74歳。元首相の竹下登の弟で、秘書を経て2000年の竹下登引退を受けて立候補して7回連続当選。旧竹下派につながる「平成研究会」に所属、2018年から会長をしていた。2019年から食道ガンを公表していた。
(竹下亘)
 スイスの指揮者ミシェル・コルボ(Michel Corboz)が9月2日死去、87歳。特に合唱曲や主教曲で知られる。61年にローザンヌ声楽・器楽アンサンブルを創設し、合唱音楽の復興に尽力した。特にフォーレやモーツァルトの「レクイエム」で多くの名盤を残した。僕は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」でフォーレの「レクイエム」を聴いている。レコードも持っている。
(ミシェル・コルボ)
 ギリシャで20世紀最大の作曲家と言われるミキス・テオドラキスが9月2日死去、96歳。交響曲も有名らしいが、世界的には映画「その男ゾルバ」で知られた。ギリシャを舞台にしたコスタ=ガヴラス監督の「」でも知られる。他の映画音楽に「エレクトラ」「戒厳令」など。第二次大戦中のレジスタンス以来、左派系活動家でも知られ、1967年の軍政クーデターではパリに逃れた。民政復帰後は国会議員にもなり大臣も務めた。
(ミキス・テオドラキス)
 アメリカの映画監督、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ(Melvin Van Peebles)が9月21日死去、89歳。アメリカのアフリカ系映画で初めて商業的な成功を収めた低予算映画「スウィート・スウィートバック」(1971)で知られている。日本では93年に公開され、また2014年にはフィルムセンターでMoMA修復版が上映されたが見ていない。監督作は数作あり、俳優、歌手、作家でもあるが、ほとんどその一作で記憶されている。
(メルヴィン・ヴァン・ピープルズ)
 アルジェリアの前大統領、アブデルアジズ・ブーテフリカが9月17日死去、84歳。アルジェリアの独立戦争に参加し、独立後の1962年にベンベラ政権の青年・スポーツ・観光相に25歳で就任した。翌1963年には26歳で外務大臣に就任して話題となった。その後解任されたが、1965年のクーデタでブーメディエンが大統領になると復活した。通算16年外相を務め、大統領後継を取り沙汰されたが1979年に失脚。90年代のイスラム過激派との悲惨な内戦を経て、1999年の民政復帰で大統領に当選した。治安の回復と豊富な天然ガスで一定の成果を挙げたが、2期までと言う憲法を改正して4期務めて独裁者と批判されるようになった。2019年に5選を目指すと表明して反対デモが噴出し辞職した。60年代の「アフリカ独立の10年」から活動した最後の政治家の一人。
(ブーテフリカ)
山田康之、8月15日死去、89歳。農学者で植物バイオテクノロジー分野の第一人者。稲の培養細胞から稲の個体を再生させることに世界で初めて成功した。奈良先端科学技術大学院大学長時代に、山中伸弥氏がiPS細胞につながる研究を始めた。文化勲章受章。
深沢弘、8日死去、85歳。ニッポン放送アナウンサー。野球中継の実況を務め、長嶋茂雄引退試合を担当したことで知られた。
和泉正敏、13日死去、82歳。彫刻家。イサム・ノグチの制作パートナーとして支えて、イサム・ノグチ日本財団理事長。
桜井順、25日死去、87歳。作曲家。富士フイルムの「お正月を写そう」などのCMの他、「黒の舟唄」「マリリン・モンロー・ノー・リターン」「バージン・ブルース」を作曲した。
石水勲、26日死去、77歳。石屋製菓名誉会長。1976年に「白い恋人」を発売したことで知られる。
藤木高嶺、29日死去、95歳。朝日新聞写真部記者として本多勝一のイヌイット、ニューギニア高地、ヴェトナム戦争などの取材を行った。
ロジャー・ミッシェル、22日死去、65歳。イギリスの映画監督。「ノッティング・ヒルの恋人」(99)が世界的にヒットした。
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映画「空白」、「不運」と「宿命」の連鎖

2021年10月04日 22時32分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 吉田恵輔監督・脚本の「空白」という映画を見た。予告編を見て、この映画は見たくないなあと思ったけれど、評判の出来だから見ておかないと。見たくないなあと思ったのは、設定の痛ましさと間の悪さに居たたまれない感じがしたからだ。ある女子中学生がスーパーで万引きをして、店長が腕を取って連行しようとする。中学生は店外へ逃げて行くから、店長は追っていく。逃げて、追って、逃げて、追って…中学生は国道を渡ろうとして、駐車車両の後ろを飛び出す。そこへ車がやって来る。中学生の父親は娘が万引きをしたとは信じない。娘が万引きするはずがない、娘にいたずらする気だったんだろう、絶対に許さないと付きまとう。

 予告編だけ見ると、どこだか判らなかった。東京近郊かと思うと、冒頭に海が出て来て、父親添田充(そえだ・みつる=古田新太)が海で漁師をしている。海辺の話だったのか。事故はテレビで大きく取り上げられ、「蒲郡中二事故」とテロップにあるから、愛知県蒲郡(がまごおり)だった。そう言えば穏やかな三河湾の向こうに竹島(相模湾の江ノ島のような島)が見えている。いつも荒々しく強権的な添田に相応しくないような風土だ。

 そこから学校へ画面が移ると、添田花音(かのん=伊東蒼)が多分入学式用の花を作っている。でもゆっくりすぎてはかどらないので、担任の今井若菜(趣里)から注意されている。一方、「スーパーアオヤギ」では店長青柳直人松坂桃李)がパートの草加部麻子寺島しのぶ)と話している。花音の両親は離別しているようで、娘は時々母親松本翔子田畑智子)に会っている。そして夕食中に父に話があると言うが、父はスマホに電話が掛かってきて忙しそうなので「今はいい」と言う。そんな日常が点描されていく。

 そして悲惨な事故が起きる。万引きを疑って追っていくのはやむを得ないと思うし、急に飛び出てくるんだから車は事故を防ぎようもない。父が娘の死を嘆くのも当然だし、娘が万引きしたとは信じたくない。もしやったとしたらクラスでイジメがあったと疑うのも当然だと思う。前日に話があると言ったのは、その相談だと思い込む。そして父はスーパーへ、学校へ乗り込んで行く。テレビはワイドショーで熱心に取り上げ、キャラが濃い父親に密着する。取材で店長の謝罪を撮るが、その後の笑ったシーンだけを流す。学校も校長は逃げ腰で担任だけが思い悩む。しかし、父は娘の何を知っていたのか。母はそのことを突きつける。

 スーパーには客がいなくなるし、店長は追い詰められる。松坂桃李は「弧狼の血 Level2」ではヤクザや県警幹部を相手に一歩も引かないというのに、ここでは荒ぶる古田新太になすすべもない。しかし、どうすればよかったのだろうか。これは「不運」としか言いようがないが、そこで人々は「宿命」を背負って歩き出すのである。父はやがて娘を少しずつ理解していくが、もはや遅すぎる。父の死でスーパーを継いだ店長も燃えつきていく。こっちは悪くないんだから闘うしかないという草加部さんの「正しさの押しつけ」では救われない。一つの悲劇から、人々の宿命が見えてくる。だけど、一体何をどうすればよかったのか。

 ここまでの荒々しさは経験しなかったが、親の対応には困ることもある。はっきり言って学校で対応できる範囲を超えているが、父親をむげにあしらうことも出来ない。こういう映画を見ると、何だかトラウマのように保護者対応の大変さが思い出されてつらくなる。花音と青柳は自ら闘う生き方を出来ないことで共通していたのかもしれない。しかし、今の日本では彼らは「加害者」と「被害者」としてしか出会えない。それも万引きにおいては花音が「加害者」で、追って行って道路に飛び出さざるを得なくさせたことにおいては青柳が「加害者」になる。50年前の水俣のように、加害者と被害者がはっきりと見えない時代を我々は生きている。

 吉田恵輔監督(1975~)は今年「BLUE/ブルー」というボクシング映画を作ったが、これは見落としている。(配信中。)「銀の匙 Silver Spoon」(2014)、「ヒメアノール」(2016)、「愛しのアイリーン」(2018)といったコミックの映画化で評価されたが、他にはオリジナル脚本が多い。「純喫茶磯辺」(2008)、「さんかく」(2010)を前に見ているが、まだまだ初期作という感じだった。原作ものも含めて、間の悪い出来事が積み重なり、主人公が暴走していくような映画が多いと思う。「空白」の古田新太はその代表と言える。

 企画・製作・エグゼクティブプロデューサーの河村光庸はスター・サンズで「愛しのアイリーン」「新聞記者」などを作ってきた。撮影の志田貴之は今まで吉田監督と組んできた人だが、手持ちカメラが少し気になった。音楽の世武裕子はいつにもまして素晴らしいと思った。今年を代表する問題作だと思うが、古田新太はほとんどホラー。面白がって見られるレベルを超えているので、無理して見ない方がいいかも。そんな中で母の田畑智子、パートの寺島しのぶが人間理解の上で重要な役どころを好演している。寺島しのぶが「こんなオバチャン」と自嘲していたが、もうそんな風に言われてもおかしくないのに時間の経過を感じてしまった。
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2021年ドイツ総選挙の結果を見る

2021年10月03日 22時13分12秒 |  〃  (国際問題)
 2021年9月26日にドイツの総選挙が行われた。この選挙にアンゲラ・メルケル首相は立候補してない。新内閣発足とともに政界を引退する。そして次期首相には社会民主党ショルツ党首が有力になっている。そのことは事前に書いておいたので、結果も報告しておきたい。ドイツの重要性もあるが、選挙制度が世界のどこにもない仕組み(小選挙区比例代表併用制)なので面白いのである。
(総選挙の結果)
 選挙結果を議席が大きい順番に書いてみる。(小=小選挙区、比=比例代表区)
ドイツ社会民主党SPD) 206議席(小=121、比=85)
ドイツキリスト教民主同盟・社会同盟CDU・CSU) 196議席
 (内訳) 
  ドイツキリスト教民主同盟CDU) 151(小=98、比=53)
  キリスト教社会同盟CSU)     45(小=45、比=0)
同盟90/緑の党(B90/Gr)        118議席(小=16、比=102)
自由民主党FDP)   92議席(小=0、比=96)
ドイツのための選択肢(AfD)       83議席(小=16、比=67)
左翼党(Linke)             39議席(小=3、比=36)
南シュレースヴィヒ選挙人同盟(SSW)   1議席(小=0、比=1) 

 今回の総議席数は、小選挙区299、比例代表区436の合計735議席である。(過半数は368議席になる。)「今回の」と書いたのは、毎回議席数が選挙結果で変わるからで、前回2017年は709議席だった。基本的には政党名投票の比例で数が決まるが、小選挙区でそれ以上当選していればその分が「超過議席」となるのである。

 そして「5%条項」があって5%未満の政党には議席が配分されない。ということは知っていたのだが、今回4.9%に落ち込んだ左翼党にも配分されている。それは小選挙区で3議席以上を獲得した政党は特例が適用されるというのである。また南シュレースヴィヒ選挙人同盟という聞いたこともない党が1議席獲得している。これは北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の地域政党で、デンマーク系、フリースランド系住民の利益を代表する政党だという。少数民族のための特例として5%条項を免除されているという。(知らないことは多い。)

 小選挙区比例代表併用制という特殊な制度のため、政党名投票が多いSPDやCDU・CSUだが、比例分の議席は少ない。比例区は緑の党やFDPの方が多い。それは大政党は小選挙区で当選出来るからである。比例分の議席が決まると、小選挙区当選者から埋めていき、残った分が比例の当選数になる。FDPは小選挙区がゼロなので、純粋に比例分の96議席となる。(連邦制なので、多分各州ごとに当選者を決めているんだと思う。)
(SPDのショルツ党首)
 結果を見れば一目瞭然だが、連立しないと政権が出来ない。(西ドイツと統一後のドイツでは)戦後すべての政権が連立である。それじゃ困るだろうと思うが、それ以上にナチスのような一党独裁政党の再現を阻止することが優先するのだろう。では今後どのような連立がまとまるだろうか。まず言えることは、SPDもCDU・CSUも、この両党の「大連立」を除けば、他のどこか一つの党と連立しても過半数にならないことである。

 「ドイツのための選択肢」は極右政党なので、連立の対象から外されている。「左翼党」はSPDが政権に入って妥協的になった左派系党員が離党して、民主社会党と合同したもの。民主社会党というが、これは東ドイツの政権党だったドイツ社会主義統一党の後身である。そのため基本的には連立対象外だが、「SPD+緑」に左翼党を加えて過半数になる場合は、閣外協力はありうる。しかし、今回の当選者数ではそれは不可能。
(メルケル首相の支援で追い上げたCDUのラシェット党首)
 となると、緑の党とFDPの双方と連立交渉をまとめられるかにかかってくる。しかし、一党が加わるだけで過半数に達するなら、その党は独自政策を高く売りつけることが可能だが、2党合わさるとどうなるか。小党は下手に妥協すると特徴がなくなって支持者を失いやすい。緑の党は当然環境問題優先。FDPは5%割り込んだ過去があって、本来は左右の中間の中道政党だが、近年では企業寄りの自由経済を主張することで支持者を確保している。つまり、この両党は主張が正反対で、政権入りのために妥協し過ぎると次の選挙が危なくなる。

 前回2017年の時も、この両党との連立交渉が延々と行われた挙げ句、結局6ヶ月も掛かってまとまらず「大連立」しかないということになった。しかし、今回は「大連立」になると10議席とは言え第一党になったSPDのショルツ党首が首相に就任することになる。(そうじゃないとまとまらない。)その場合首相職を明け渡すCDU・CSUとしては何とか緑の党、FDPを連立に巻き込もうと必死の交渉を繰り広げるだろう。しかし、緑の党が環境政策を薄めてまで連立に参加するメリットは少ない。

 そうなると最終的には再び「大連立」になるしかないとなる。そういう可能性が高いのではないだろうか。そう覚悟するまで半年ぐらい掛かるかもしれないが、何とか年内に決着して欲しいものだ。メルケル首相が継続するならともかく、辞めると判っている首相がいつまでやってるというのは、ドイツの重要性から考えて望ましくない。こういう風に長く揉めるとなると、比例代表中心の選挙というのも考えものかと思う。
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映画「MINAMATA-ミナマタ-」をどう見るか

2021年10月02日 22時18分40秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画「MINAMATA-ミナマタ-」が公開されたが、これをどう見れば良いのだろうか。1971年に来日して水俣病の患者たちを撮影した世界的写真家ユージン・スミス(1918~1978)をジョニー・デップが演じることで評判を呼んだ。日本では拡大公開され第一週のヒットランキングにも10位に滑り込んだ。ジョニー・デップ効果なんだろうが、第二週以後は時間が見にくくなっている。アメリカではジョニー・デップが離婚・DV問題でスター価値が下がって、残念ながらこの映画の公開もメドが立たないようだ。

 ユージン・スミスの写真集「水俣」は日本では1980年に刊行された。非常に評判になって僕も買って、その後授業で何度も使わせて貰った。機材も整備されてない時代のことだから、大判の写真集そのものを教室で回して見て貰った。写真の力だろう、生徒もちゃんと見ていたと思う。何回か開かれたスミスの写真展も見ている。特に生誕百年で開かれた回顧展では水俣以前の多くの写真を見ることが出来た。(ここでは書いてないようだ。)

 70年前後には東京で「」のむしろ旗を掲げて座り込んだ水俣病患者と支援者たちを見ることが多かった。土本典昭監督の有名な記録映画「水俣」「水俣一揆」「不知火海」はリアルタイムで見て大きな衝撃を受けた。水俣病裁判を支援する人も多かったし、90年代には東京で「水俣展」が開かれた。僕はそこら辺までは水俣病に関する集会などがあれば時々行っていたと思う。調べると、現在も「水俣フォーラム」は活動を続けている。

 ということで、やはり見なくては思ったのだが評価はなかなか難しい。史実そのものであることは不要だと思うが、疑問を感じるシーンも多い。海が不知火海っぽくないのだが、最後のクレジットでセルビアモンテネグロ日本でロケされたと出る。と言うことはモンテネグロの海だろうか。水俣でロケすることはいろんな意味で無理だろうし、日本の景観は50年経つと完全に変わっているだろう。他にも現実を大きく違う点も多い。スミスがチッソの警備員に殴られ大けがをしたのは千葉県市原市の五井工場だが、映画では水俣と思える。社長が水俣にいて、大金をスミスに差し出すのも不自然。そこら辺をどの程度気にするべきか。
(水俣病自主交渉派の人々)
 この映画は要するにスミスの人生を「物語」にしている。それはよくあるボクシング映画の構造などと似ている。昔はすごかったボクサーが飲んでばかりで引退の危機にある。そこへファム・ファタール(運命の女)が現れ、主人公を励まして新しい目標を指し示す。やる気を取り戻してトレーニングに打ち込むが、周りには障害がいっぱいで八百長も持ち込まれる。くじけそうになった主人公はまた飲んでしまう。しかし最後の最後で「生涯の最高の闘い」に全力を出すのだった。要するにこのボクサーがユージン・スミスである。

 そしてその生涯の最高の闘いとは、映画内では「アキコ」とされる上村智子(1956~1977)を撮った「入浴する智子と母」である。まさに「聖母子像」(ピエタ像=磔にされたイエスを抱く母マリア像)を思わせる。冒頭ではアキコの写真撮影を断られるが、大けがを負って(患者たちと同じスティグマをスミスも負って)患者と同等の位置に立つことになったスミスには写真撮影が許されたのである。その荘厳なシーンがあればこそ、この映画は忘れがたいものになった。
(ユージン・スミス)
 病院に潜入して書類を探すシーンやスミスの写真工房が放火されるシーンなど、現実改変が過ぎると思うシーンが多くて、この映画の脚本には疑問も多い。しかし、物語としての脚本は「アキコ撮影」に向けてスミス受難が必要だということだろう。でも実際に大けがを負っているんだから、それ以上は必要だろうか。だから全体的には図式的な描き方を脱していないように思えてくる。ラストに福島第一原発事故やボパール製薬工場事故、世界各地の水銀中毒など多くの公害、事故の写真を列挙する。作り手のメッセージが込められた力作ではある。

 ジョニー・デップは若いようで、1963年生まれなので58歳である。スミスが水俣に来たのは52歳だから、スミスの方が若いのである。アイリーンとは1970年に知り合って、31歳差だった。映画ではアイリーンを美波(1985~)が演じていて、現実のアイリーンが若かったことに驚く。患者団体のリーダーに真田広之、患者メンバーに浅野忠信加瀬亮、チッソの社長に國村隼と国内キャストはいやに豪華である。監督はアンドリュー・レヴィタスという人で、今までは画家や彫刻家としてのキャリアが長いようだ。デップの指名らしいが、身近ではない脚本を上手に演出することに気を遣っている。音楽は坂本龍一
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横綱白鵬の引退に寄せて

2021年10月01日 23時07分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2007年7月場所から大相撲の横綱を務めていた白鵬が引退した。秋場所終了翌日の月曜日に「引退の意向」と大きく報道されたが、正式に引退して年寄「間垣」の襲名が承認されたのは9月30日である。そして10月1日に記者会見が行われた。僕は白鵬が特に好きなわけでもないけれど、間違いなく「不世出の横綱」である。最近は批判的な論調がいっぱいあふれているが、バランスを失していると思う。それは単に相撲だけの問題ではない。

 僕はスポーツ中継をよく見ていて、でも特にどこかのチームのファンだとか言うわけでもない。面白いもの、すごいものを見たいだけである。相撲の話は前にも書いたことがあるが、子どもの頃はプロ野球と大相撲しかなかったからファンだった。その後見たり見なかったりして今に至るが、まあ見てる方なんだと思う。白鵬が強かったから、そんなにファンだったわけではない。僕は弱い方を応援したくなるから、強すぎると関心が薄れるのである。それは相撲に限らずすべてのスポーツに言えるし、政治やアートなどでも同じである。

 白鵬は近年休場が多くなって批判も受けてきた。数年前から「東京五輪まで頑張る」と言っていた。2018年に亡くなった父ジグジドゥ・ムンフバトは1964年の東京五輪に出場していた。モンゴル相撲の大選手だった父は、レスリングのモンゴル代表として5回のオリンピックに出場し、1968年のメキシコ五輪では銀メダルを獲得した。だから「2020年の東京五輪」を横綱として迎えたいというのを目標にしたわけである。しかし、東京五輪は一年延期されてしまった。2021年の7月場所に全勝優勝したのを見て、白鵬はもうすぐ引退だと思った。

 優勝45回(2位は大鵬32回)、横綱在位84場所(2位は北の湖63場所)、横綱勝利899勝(2位は北の湖670勝)、通算勝利1187勝(2位は魁皇1047勝)、年間勝利数86勝(2回、2位は朝青龍84勝)などなど、記録はもう誰も抜けない大記録ばかりである。一年に6場所しかないんだから、在位記録を抜くためには14年以上横綱じゃないといけない。(白鵬の時代には八百長問題とコロナ禍で2回の本場所中止があった。)

 忘れてはいけないのは「一人横綱」が長かったことである。朝青龍が引退(させられた)後の2010年3月場所から、日馬富士が横綱に昇進した2012年9月場所まで、15場所が一人横綱だった。3月11日生まれの白鵬が「宿命」と語った東日本大震災の時、(ちょうど八百長問題で3月場所は中止だった)横綱は一人だった。その後白鵬は被災地を訪れ土俵入りなどを行った。八百長と大震災という大相撲の危機を白鵬が横綱として迎えたのである。相撲ファンのみならず、モンゴルから来た青年が横綱でいたことを覚えていて欲しいと思う。(なお一人横綱は朝青龍の21場所が最長記録。白鵬は日馬富士、稀勢の里、鶴竜が先に引退して最後も2場所一人横綱。)
(稀勢の里に敗れて連勝が63で止まった)
 白鵬が横綱に昇進したとき、モンゴルの先輩横綱朝青龍(あさしょうりゅう)の「変格相撲」に対し、本格的な四つ相撲の白鵬に期待する声が高かった。最後は「荒々しい」とか「粗暴」とか批判される「張り手」「かちあげ」が多くなったけれど、それは剛速球投手が年齢を重ねて変化球で生き延びるようなものだろう。白鵬が一番強かった時代は双葉山の「後の先」を現代に蘇らせたような本格的な「横綱相撲」だった。菅内閣の支持率を見れば判るように、人の心は移ろいやすい。皆忘れてしまったのだろうか。
(万歳三唱を観客に求めた白鵬)
 白鵬が最後に「万歳三唱」「手拍子」などを観客に求めたのは、僕もどうかと思う。しかし、NHKが優勝力士のインタビューを土俵下で行うようになったことにも問題がある。観客を前にすれば盛り上げたいと思うのも判らないではない。審判に文句を付けるような態度も確かに頂けないが、これは見ていて僕は白鵬が一言言いたくなるのも無理はないと思った。全体的に白鵬を批判する人は「日本の伝統」を「わきまえない」という感じで批判している。つまり森喜朗五輪組織委会長の「わきまえない女」のモンゴル版である。

 そういう人に限って「相撲は単なるスポーツではない」と言う。「相撲は神事」などというのだが、そんなのいつの時代の話だろう。どんなものにも時代的な制約はあるが、江戸時代以来相撲はむしろ「興行」だったと言うべきだろう。だから八百長なども起きる。そういうんじゃいけないと「相撲はプロスポーツ」だと改革してきたんだから、勝つために反則以外の技を駆使するのは当然ではないのか。白鵬は天性の資質に努力と研究を重ねて自分の地位を作った。白鵬を越える若い力士が出て来なかったから批判されるほどの長く横綱を保った。

 毎日テレビでは大谷翔平がベーブ・ルースを抜くかと大報道を繰り広げている。日本人は大谷が大リーグの記録を更新することを望んでいるらしいが、アメリカ人にしてみれば複雑な思いもあるだろう。日本人が「国技」と呼ぶ大相撲もすっかり外国人が活躍するようになっている。それでやむを得ないと僕は思うのだが、「日本の伝統をわきまえろ」的な圧力が外国出身者には掛かってくる。そういう日本社会の姿が見えてくる。様々な問題で「わきまえろ」という声が聞こえてくるのが日本だなあと思う。
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