また少し髪を切った。
切りたて(?)の姿のまま、買い物の用事に出掛けたら、その髪に合いそうな服を見つけて
(超リーズナブルだったし)ちょっと嬉し。
***
前に『ボルヘスのイギリス文学講義』の「解説」にあった、「無限後退」のことに触れました(>>)が、中村先生はこう書いています。
「無限後退」(regressus in infinitum)は、時代と国を異にする作家や作品を
繋げていくさいのモチーフとして、評論家ボルヘスがもっとも頻繁に用いているものです。
そして、次のようにも述べてます。
無限後退が原型への遡及であること
これを読んだとき、ふ~む、そうなの、、?? と半ば納得、半ば疑問で、、なぜならボルヘスの作品って「原型」の不確実さとか、曖昧さをこそ語っているのではないかしら、などと思っていたから。。故郷でもちらと「無限後退」の話をして、それがギリシア的意味と、東洋的意味もあるようなことを聞かされ、ますますなんだかよくわからなくなり、それで、戻ってからボルヘス・コレクションの中の『論議』
というエッセイ集を読んでいるところです。その中に、「アキレスと亀の果てしなき競争」というエッセイがあって、これなどが、ヒントになるのかなあ、、と考え始めているところ、、。
ところで、先日、マイケル・カニンガム氏の講演会に行って来ましたが(>>)、『星々の生まれるところ』で重要なキーになっているホイットマンの詩について、、。なんと、ボルヘスの先の『論議』の中に、ホイットマンに関するエッセイが2つ載っていて、なんだか不思議な巡り合わせ。
「ウォルト・ホイットマンに関する覚え書」というエッセイで、ボルヘスはこう書いています。
バイロンとボードレールは、それぞれの卓越した作品においてみずからの不幸を劇的に
歌い、ホイットマンはその幸福を歌った。…(略)…ホイットマンは謙虚に、そして熱烈に、
万人と似通うことを願望する。
たぶん、このボルヘスの言葉には(ホイットマンを読んだ)多くの人が同意するでしょう。ボルヘスだけの特別な意見ではないし、、でも、(だから)、ちょっと意外でもあり、嬉しくもあったのでした。ボルヘスがホイットマンを好んでいたみたい、、(!?)。さあて、、ここから先の「無限後退」に視点を戻すと、、、「時代と国を異にする作家や作品を繋げていくさいのモチーフ」としての「無限後退」というキーワードが、ほんの少し、見えた気がした。
そして、カニンガムさんが「9・11以後の世界」で「書く」、という為にホイットマンを引いてきた意味にも、なんとなく通じる気がしたのです。カニンガムさんは講演会で語っていました。小説家は、作品でどんなに救いの無い世界を描こうとも、基本的に小説家はペシミスティックでは無いのだと思う。小説家に限らず、ものを創り出すアーティストはすべてそうであるはずだ、、と。
あ、、ちなみに、講演会で集英社の方のお話にもありましたが、かの漱石も「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitman の詩について」という論考を明治25年に書いています。帝国大学の学生時代(25才)の、若書きの文章ですが、かなりの熱血ぶりが見える文章で面白いです(現在の全集なら第13巻に入ってます)。
ウォルトを何と評しているかというと、、
去らば「ホイットマン」の平等主義は如何にして其(その)詩中に出現するかと云ふに
第一彼の詩は時間的に平等なり次に空間的に平等なり人間を視ること平等に山河禽獣を
遇すること平等なり。・・・
ね、、カニンガムさんにまでつながる、「異なる時代と国をつなげるための鍵(キー)」が、ここにも。。
***
さて、新しいお洋服着て、お仕事行こうかな。
切りたて(?)の姿のまま、買い物の用事に出掛けたら、その髪に合いそうな服を見つけて
(超リーズナブルだったし)ちょっと嬉し。
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前に『ボルヘスのイギリス文学講義』の「解説」にあった、「無限後退」のことに触れました(>>)が、中村先生はこう書いています。
「無限後退」(regressus in infinitum)は、時代と国を異にする作家や作品を
繋げていくさいのモチーフとして、評論家ボルヘスがもっとも頻繁に用いているものです。
そして、次のようにも述べてます。
無限後退が原型への遡及であること
これを読んだとき、ふ~む、そうなの、、?? と半ば納得、半ば疑問で、、なぜならボルヘスの作品って「原型」の不確実さとか、曖昧さをこそ語っているのではないかしら、などと思っていたから。。故郷でもちらと「無限後退」の話をして、それがギリシア的意味と、東洋的意味もあるようなことを聞かされ、ますますなんだかよくわからなくなり、それで、戻ってからボルヘス・コレクションの中の『論議』
ところで、先日、マイケル・カニンガム氏の講演会に行って来ましたが(>>)、『星々の生まれるところ』で重要なキーになっているホイットマンの詩について、、。なんと、ボルヘスの先の『論議』の中に、ホイットマンに関するエッセイが2つ載っていて、なんだか不思議な巡り合わせ。
「ウォルト・ホイットマンに関する覚え書」というエッセイで、ボルヘスはこう書いています。
バイロンとボードレールは、それぞれの卓越した作品においてみずからの不幸を劇的に
歌い、ホイットマンはその幸福を歌った。…(略)…ホイットマンは謙虚に、そして熱烈に、
万人と似通うことを願望する。
たぶん、このボルヘスの言葉には(ホイットマンを読んだ)多くの人が同意するでしょう。ボルヘスだけの特別な意見ではないし、、でも、(だから)、ちょっと意外でもあり、嬉しくもあったのでした。ボルヘスがホイットマンを好んでいたみたい、、(!?)。さあて、、ここから先の「無限後退」に視点を戻すと、、、「時代と国を異にする作家や作品を繋げていくさいのモチーフ」としての「無限後退」というキーワードが、ほんの少し、見えた気がした。
そして、カニンガムさんが「9・11以後の世界」で「書く」、という為にホイットマンを引いてきた意味にも、なんとなく通じる気がしたのです。カニンガムさんは講演会で語っていました。小説家は、作品でどんなに救いの無い世界を描こうとも、基本的に小説家はペシミスティックでは無いのだと思う。小説家に限らず、ものを創り出すアーティストはすべてそうであるはずだ、、と。
あ、、ちなみに、講演会で集英社の方のお話にもありましたが、かの漱石も「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitman の詩について」という論考を明治25年に書いています。帝国大学の学生時代(25才)の、若書きの文章ですが、かなりの熱血ぶりが見える文章で面白いです(現在の全集なら第13巻に入ってます)。
ウォルトを何と評しているかというと、、
去らば「ホイットマン」の平等主義は如何にして其(その)詩中に出現するかと云ふに
第一彼の詩は時間的に平等なり次に空間的に平等なり人間を視ること平等に山河禽獣を
遇すること平等なり。・・・
ね、、カニンガムさんにまでつながる、「異なる時代と国をつなげるための鍵(キー)」が、ここにも。。
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さて、新しいお洋服着て、お仕事行こうかな。