今年は美術展をわりとたくさん見られて嬉しいな。。
7月の末に、藤原新也写真展「沖ノ島」(日本橋高島屋)
それから先週末に、 bunkamura ザ・ミュージアムで「ベルギー奇想の系譜」展。 それぞれ tweet のほうにも簡単に載せてしまったので、 こちらは思い出話なども一緒に…
***
「沖ノ島」、、この7月に世界遺産に登録されたのですね。 一昨日あたりTVでも見かけました。 でも、TV映像で見ると、 ごく普通に昼間の島と社殿がクリアにきれいに映っていただけで、 写真展で見たような神宿る島のおごそかさ、 森の呼吸みたいなものが 感じられなかった気がします。。
藤原新也さんの写真展は、 いくつか見ています。
渋谷PARCOで 『南島街道』を観たのは93年の夏だったようです。 まだ東京に住んでいなくて、 故郷からこちらの友人に会いに来て一緒に見ました。
それよりも前、 『メメント・モリ』もどこかで見ていたはず… (記憶が曖昧) 95年頃、 駒ヶ根美術館でも見ています(HP>>)
「人間は犬に食われるほど自由だ」(メメント・モリ) というガンジス河縁の写真に 解放されました。。 癒される、という語は嫌いでしたあの頃、、 癒えはしないことがわかっているから、、。 癒しではなく、 解き放たれた… のでした。
パルコで南国の島々を見た時も、 渋谷という象徴的な場所で(今よりもっとPARCOは象徴的でしたよね) 若い子がいっぱいいて(自分も含め)、、 一歩外へ出れば公園通りに人が溢れてて、 そんな「こちら側」と青い海と空の「あちら側」が繋がっていて、、 それがいかにも藤原新也ぽかった。
それから24年、、 若者は中年になり、 藤原さんは老年になり、、 会場はパルコから高島屋になって… というのがなんか可笑しかった。。 百貨店の催事場スペースを入っていくと、 そこに太古の森の息吹きと、 神事を司る異空の光がある。。。 その不思議さと、、 それこそが藤原新也的、とでも言うような、、。 彼岸を見つめる衆目の立つ「こちら側」は、 「犬に食われる」以前の、 物と金銭と雑言が行き交う現世(うつしよ)なのですから。。
、、決して皮肉などではないのです。 そのように現世(うつしよ)を踏まえてこその作家だと、 藤原さんをずっと見てきて思っているということなのです。。 神宿る島の先は… 何処へむかわれるのでしょう…?
***
「ベルギー奇想の系譜」展のほうも tweet に先に載せてしまったので あまり重ならないことを。。
チラシには、ボス、マグリットから ヤン・ファーブルまで、、 と書かれていますが、、 ボスやマグリットは今までにも見たり読んだりした知識もあり、、
その有名な絵を見る、という視点よりも、 15世紀から19世紀に至るまで 何度となく描かれた「聖アントニウスの誘惑」という題材の絵を追って観るのも面白かったです。
聖アントニウスについては、 前に(ベルギーとは全然関係ありませんが) ジュール・シュペルヴィエルの短編小説 「沙漠のアントワーヌ」について書いた事がありましたね(>>) あのアントワーヌが聖アントニウスのことなのですよね。 小説でも 修行を続けるアントワーヌの寝所に誘惑のおねぃちゃんの人形(笑)を投げ入れられたりしていましたが、、
今回の美術展でも 数々の描かれた聖アントニウスが ヘンな怪物とかあられもない姿のニンフとか、 幻? 夢魔? に苛まれてギャーーーと頭を抱えていたり… 大変苦悩している、、 心底苦悩している、、のですが 何故かどこかコミカルに見えてしまう。。 そう見えるのは何故だろう… なぜか危機感をおぼえないのは、 聖アントニウスが誘惑に耐えている姿がみんな身につまされるものだから恐怖とか厳粛なかたちで描かれないのかな、、などと思ったり、、
第二部の ベルギー象徴派以降、ロップス、クノップフ、デルヴィル、デルヴォーなど、、 こちらは 月光と闇と黎明と、 死者と精霊と妖魔が 人の心にしのびよる世界。。
ツイートにも書きましたが、 デルヴィルは今までよく知らなかった画家ですが アラン・ポーの『赤死病の仮面』を題にした絵や、 無数の鳥が斃れた男のからだに舞い降りてくる 「ステュムパーリデスの鳥」など、、怖くてそして美しかった。 ステュムパーリデスって何だろう… と帰って調べたら、 ギリシャ神話に出てくるのだそうです(Wiki>>)
「レテ河の水を飲むダンテ」は、清浄な百合をマテルダに捧げるダンテ…色彩がとても美しかった。
デルヴィルを検索していたら 思わぬ発見があって…
ロシアの作曲家スクリャービンは、、1909~1910年ブリュッセルに住み、 デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に影響を受けた作品を創っているのだそうです。
… たまたま、先日から「アシュケナージ・プレイズ・スクリャービン 焔に向かって」というCDを聴いていたので 思わぬ繋がりに吃驚。。 さらに検索したら、
国立音楽大学図書館のサイトに「図書館展示7月●2005 スクリャービンの世界~神秘主義とロシア・ピアニズム~」という記事を見つけました。
https://www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2005/tenji0507.pdf
アシュケナージのCDの解説にも、 1902年頃からスクリャービンはニーチュの哲学から、 プラヴァツキーの神智学へ関心を高めていったということがあり、、 その後、ブリュッセルでデルヴィルの絵画に出会うのですね。
そしてデルヴィルの1907年の「プロメテウス」という絵画のイメージから、、 音楽に色光ピアノを用いた交響曲「プロメテウス」が創られたのだと、、
《色光ピアノ》…これかな、、?
Scriabin's Prometheus: Poem of Fire
はぁ~~、、 このあたりはまだまだ知らないことばかり。。 これからだんだん勉強していきましょう、、 面白い発見でした。
***
bunkamura ザ・ミュージアムへ初めて行ったのは、 「エゴン・シーレ展」でした。。 さっきカタログを開いてみたら、 91年の秋でした。
26年前なの…? なんだか、、 ついこのまえのことのように憶えてる。。 ミュージアムの外のカフェでお茶を飲んだことも、、。
お盆ですから、、 きっと この26年の間に空へのぼった魂も、 近くにかえってきているのだと思います。 どうしてわたしがまだ此処にいて、 生きていたらまだ60にもならない筈の貴方や、 幼馴染みだった貴女がたがいないなんて、、。 でもきっと、 そこには何かしら理由があって、、
現世(うつしよ)の行いが未熟で足りないから、、 わたしは 此処に居なさいと、 まだそう言われているのでしょう。。
でも此処にいるからこそ、、 26年前と同じ美術館へ、 そのときと同じ友と一緒に行って絵を楽しむことができる、、
そんな 奇跡のような恩寵もあるのです。。
7月の末に、藤原新也写真展「沖ノ島」(日本橋高島屋)
それから先週末に、 bunkamura ザ・ミュージアムで「ベルギー奇想の系譜」展。 それぞれ tweet のほうにも簡単に載せてしまったので、 こちらは思い出話なども一緒に…
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「沖ノ島」、、この7月に世界遺産に登録されたのですね。 一昨日あたりTVでも見かけました。 でも、TV映像で見ると、 ごく普通に昼間の島と社殿がクリアにきれいに映っていただけで、 写真展で見たような神宿る島のおごそかさ、 森の呼吸みたいなものが 感じられなかった気がします。。
藤原新也さんの写真展は、 いくつか見ています。
渋谷PARCOで 『南島街道』を観たのは93年の夏だったようです。 まだ東京に住んでいなくて、 故郷からこちらの友人に会いに来て一緒に見ました。
それよりも前、 『メメント・モリ』もどこかで見ていたはず… (記憶が曖昧) 95年頃、 駒ヶ根美術館でも見ています(HP>>)
「人間は犬に食われるほど自由だ」(メメント・モリ) というガンジス河縁の写真に 解放されました。。 癒される、という語は嫌いでしたあの頃、、 癒えはしないことがわかっているから、、。 癒しではなく、 解き放たれた… のでした。
パルコで南国の島々を見た時も、 渋谷という象徴的な場所で(今よりもっとPARCOは象徴的でしたよね) 若い子がいっぱいいて(自分も含め)、、 一歩外へ出れば公園通りに人が溢れてて、 そんな「こちら側」と青い海と空の「あちら側」が繋がっていて、、 それがいかにも藤原新也ぽかった。
それから24年、、 若者は中年になり、 藤原さんは老年になり、、 会場はパルコから高島屋になって… というのがなんか可笑しかった。。 百貨店の催事場スペースを入っていくと、 そこに太古の森の息吹きと、 神事を司る異空の光がある。。。 その不思議さと、、 それこそが藤原新也的、とでも言うような、、。 彼岸を見つめる衆目の立つ「こちら側」は、 「犬に食われる」以前の、 物と金銭と雑言が行き交う現世(うつしよ)なのですから。。
、、決して皮肉などではないのです。 そのように現世(うつしよ)を踏まえてこその作家だと、 藤原さんをずっと見てきて思っているということなのです。。 神宿る島の先は… 何処へむかわれるのでしょう…?
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「ベルギー奇想の系譜」展のほうも tweet に先に載せてしまったので あまり重ならないことを。。
チラシには、ボス、マグリットから ヤン・ファーブルまで、、 と書かれていますが、、 ボスやマグリットは今までにも見たり読んだりした知識もあり、、
その有名な絵を見る、という視点よりも、 15世紀から19世紀に至るまで 何度となく描かれた「聖アントニウスの誘惑」という題材の絵を追って観るのも面白かったです。
聖アントニウスについては、 前に(ベルギーとは全然関係ありませんが) ジュール・シュペルヴィエルの短編小説 「沙漠のアントワーヌ」について書いた事がありましたね(>>) あのアントワーヌが聖アントニウスのことなのですよね。 小説でも 修行を続けるアントワーヌの寝所に誘惑のおねぃちゃんの人形(笑)を投げ入れられたりしていましたが、、
今回の美術展でも 数々の描かれた聖アントニウスが ヘンな怪物とかあられもない姿のニンフとか、 幻? 夢魔? に苛まれてギャーーーと頭を抱えていたり… 大変苦悩している、、 心底苦悩している、、のですが 何故かどこかコミカルに見えてしまう。。 そう見えるのは何故だろう… なぜか危機感をおぼえないのは、 聖アントニウスが誘惑に耐えている姿がみんな身につまされるものだから恐怖とか厳粛なかたちで描かれないのかな、、などと思ったり、、
第二部の ベルギー象徴派以降、ロップス、クノップフ、デルヴィル、デルヴォーなど、、 こちらは 月光と闇と黎明と、 死者と精霊と妖魔が 人の心にしのびよる世界。。
ツイートにも書きましたが、 デルヴィルは今までよく知らなかった画家ですが アラン・ポーの『赤死病の仮面』を題にした絵や、 無数の鳥が斃れた男のからだに舞い降りてくる 「ステュムパーリデスの鳥」など、、怖くてそして美しかった。 ステュムパーリデスって何だろう… と帰って調べたら、 ギリシャ神話に出てくるのだそうです(Wiki>>)
「レテ河の水を飲むダンテ」は、清浄な百合をマテルダに捧げるダンテ…色彩がとても美しかった。
デルヴィルを検索していたら 思わぬ発見があって…
ロシアの作曲家スクリャービンは、、1909~1910年ブリュッセルに住み、 デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に影響を受けた作品を創っているのだそうです。
… たまたま、先日から「アシュケナージ・プレイズ・スクリャービン 焔に向かって」というCDを聴いていたので 思わぬ繋がりに吃驚。。 さらに検索したら、
国立音楽大学図書館のサイトに「図書館展示7月●2005 スクリャービンの世界~神秘主義とロシア・ピアニズム~」という記事を見つけました。
https://www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2005/tenji0507.pdf
アシュケナージのCDの解説にも、 1902年頃からスクリャービンはニーチュの哲学から、 プラヴァツキーの神智学へ関心を高めていったということがあり、、 その後、ブリュッセルでデルヴィルの絵画に出会うのですね。
そしてデルヴィルの1907年の「プロメテウス」という絵画のイメージから、、 音楽に色光ピアノを用いた交響曲「プロメテウス」が創られたのだと、、
《色光ピアノ》…これかな、、?
Scriabin's Prometheus: Poem of Fire
はぁ~~、、 このあたりはまだまだ知らないことばかり。。 これからだんだん勉強していきましょう、、 面白い発見でした。
***
bunkamura ザ・ミュージアムへ初めて行ったのは、 「エゴン・シーレ展」でした。。 さっきカタログを開いてみたら、 91年の秋でした。
26年前なの…? なんだか、、 ついこのまえのことのように憶えてる。。 ミュージアムの外のカフェでお茶を飲んだことも、、。
お盆ですから、、 きっと この26年の間に空へのぼった魂も、 近くにかえってきているのだと思います。 どうしてわたしがまだ此処にいて、 生きていたらまだ60にもならない筈の貴方や、 幼馴染みだった貴女がたがいないなんて、、。 でもきっと、 そこには何かしら理由があって、、
現世(うつしよ)の行いが未熟で足りないから、、 わたしは 此処に居なさいと、 まだそう言われているのでしょう。。
でも此処にいるからこそ、、 26年前と同じ美術館へ、 そのときと同じ友と一緒に行って絵を楽しむことができる、、
そんな 奇跡のような恩寵もあるのです。。