前回の第19章「惑わし」の終わりに…
(ここから旅人は《荒野》へと向かうのでしょうか…) と書きました。。
、、なんとなく、の予感があった通り 今回の「道しるべ」の詩には Wüstenei’n=荒野、荒地 という語が出てきます。
村を避け、 人々が踊りに興じる家の明かり… それはかつて自分もそのように楽しんだ思い出もそこに含まれるのでしょう、、 その思い出ごと捨て去るようにして旅人は村を通り過ぎました。 …ここから旅人が向かうのは 人がわざわざ避けるような 誰も通らない岩と雪の荒野への道、、
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シューベルトが『冬の旅』を完成させたのは 死の前年(1827年)とのことですが(Wiki>>)
この第20章で ボストリッジさんは シューベルトの最後の5年間(1823年~)の健康状態について、 友人への書簡などを引用して 大変くわしく解説されています。
次第に悪化する健康状態のなか シューベルトがどのような治療を受けていたか、 また、 最晩年にシューベルトが読んでいた《小説》についても 書かれています。 (本文内容をここで明かすわけにはいきませんので書きませんが) そのことは大変興味深いものでした。。
シューベルトがどのような思いで この『冬の旅』の作曲に向かっていたのか、 どのようにミュラーの詩を受け止めていたのか、、 そして この20曲目に出てくる《荒野》への道と、 自分がそのころ悪化した健康のなかで読んでいた本の内容と、 旅人がこれから向かおうとしている行き先への思いと、 それらをどう重ね合わせていたのか… いろいろ想像する助けになります。
しかし、、 シューベルト自身が受け止めなければならなかった《荒野への道》と、 この歌の主人公である旅人の《道》とは 今は別にして考えたいと思います。 この第20曲の詩で 旅人は何が自分を荒野へ駆り立てるのか、と自身に問うています。
ohne Ruh’ und suche Ruh’ = 休むことなく、 しかも安らぎを求めて
… さまよい続けるのだ、、 と。 路上には道しるべが いくつかの町への道をさし示して立っています。 安らぎを求めて… であれば その町への道を目指すべきですが、 旅人は町へ通じる道をここでも拒否して、 そして、
eine Straße muß ich gehen = 私は行かなければならない
die noch keiner ging zurück = 誰も戻ったことのない《道》を
… と自分に命じます。
誰も戻ったことのない《道》… それは「破滅」とか「絶望」とか「死」を意味すると考えるべきなのでしょうか。。
この歌曲のリズムは淡々としていますが、 歌詞は二度ずつ繰り返され それはなんだか自分に言い聞かせるような、 想いを自分自身で確かめ直すような感じがあります。 最後の《誰も戻って来たことのない道》の部分は 3度 静かに言い聞かせるように繰り返されます。 この静かな決意の込められた足取り=リズムは、 決して絶望や諦めに向かう道ではないように思えるのですが…
道なき道、、 未知の道。。 未来が誰にとっても予測不能なものであれば… 人生の時間が逆に回転することがないものであれば… 人生の道は誰にとっても戻ることの出来ない道、とも言えます。
旅人はこれまで何度も振り返ってきました。 「かえりみ」でも 「郵便馬車」でも つい先刻の「惑わし」の中でさえも 旅人がかつて夢見ていたあの女性との未来=道 を想っていました。 その《安らぎ》を過去のものにし 拒絶した今は… 旅人がこれから進もうとしている道は 誰かが決めてくれた道でもないし、 これまで想像もしてこなかった新しい道である筈…
そういう風に 《誰も戻って来たことのない道》を解釈してみるのは 甘い願望でしょうか…
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『冬の旅』… そろそろ終盤です。。
現実の世界では春の雨が多くなってきました。
… 雨のあとには 花… ですね。
それまでにこの旅も終えられるでしょうか、、