
旅人は 墓場へたどり着きました。
… 荒野への道を歩き出してからどのくらい経っているのでしょう、、 村の灯りから離れてどのくらい歩いたのでしょう、、 『冬の旅』の終盤は時間の経過があいまいになってくるような感じがします。
この墓場は 町や村の近くにある 人々がしばしば訪れる場所にあるような感じがしません。 なにか 荒れ野のなかの古戦場のような、 賽の河原のような、 そんな古い(或は忘れられた)墓所のような気がします。
… いつも、 先に歌詞を読んでから 歌曲を聴くのですが、 この第21曲「宿屋」は詩の印象と 曲の印象があまりに違っていておどろきました。 疲れ切って墓場へたどり着いた光景を歌っているその曲は あまりに美しく、 まるで教会のミサで奏でられる讃美歌のようです。
『冬の旅』でこれまで聴いてきた曲の中で (私には歌詞が耳では理解できないから、ピアノと歌声が奏でる雰囲気のことなのですが) いままでで一番 美しい調べではないかしらと… 正直、 聴いていて涙するくらいでした。。
こんなに美しい曲のなかで 旅人はもう疲れ切って倒れそうになっているのでしょうか… もう力尽きて永遠の眠りを この墓所に求めて来ているのでしょうか…
… そんなふうには思えない、、 (思いたくない、というのが本音ですが)
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ボストリッジさんの この第21曲への解説は短いです。
「墓地」の光景を歌ったこの歌の題が「宿屋」であることの意味、、 この曲の讃美歌のような荘厳さに対する音楽的なコメント、、
ボストリッジさんが挙げている幾つかのうちから、 シューベルトが『冬の旅』と同時期に作曲した(1827年) 「ドイツ・ミサ曲」(D872)を聴いてみました。 そうですね… このミサ曲の荘厳さが 第21曲にも感じられます。
… ならば、 疲れた旅人は 主の御許へ行くことを願っているのでしょうか… そこで地上で得られなかった永遠の安らぎのなかで眠りたい、と… ?
しかし
die Kammern all’ besetzt? = 部屋はすべて塞がっている?
… その拒絶の声を 旅人はどこから聴いたのでしょうか、、 疲労の極限で (まだお前の来る場所ではない)という主のお声を聴いたのでしょうか? …そうではないような気がします。。 旅人は自分自身で分かっているのだと思います。
Nun weiter denn, nur weiter, = ならば今すぐ先へ、さらに先へと
mein treuer Wanderstab! = 私の忠実な旅の杖よ!
(訳はわたしの直訳です)
前の曲「道しるべ」が示した 誰も戻ったことのない《道》… その行き先がこの《墓所》であるとは、 旅人はそうは思っていないはずです。 だからこそ ここには居場所がない(宿が全部ふさがっている)という声を聴くことができたのだし、 ふたたび荒野へと、 今すぐ先へ! と決意することが出来たのだと、 そう思います。
treuer = 忠実な
という言葉は 第15章「カラス」で出てきました。
Treue bis zum Grabe! = 《墓》に着くまで私に忠実であれ!
と、あのときはカラスに呼び掛けていました、、自分についてくる烏に。。 今は「杖」に呼び掛けています。 どこまでも歩く為の「杖」なのです、、 神の御許での休息ではなく…
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荒野の旅人と杖…
十字の杖を手に持った図像で必ず描かれる 「洗礼者ヨハネ」の姿もふと頭をかすめます。。 毛皮の衣を纏い 荒野で修業をしながら 人々に語りかけていた旅人… 私が最も好きな絵 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「荒野の洗礼者聖ヨハネ」のことが頭にあるせいでしょう…
旅人の忠実な友は、 過去の夢でもなく、 カラスでもなく、 旅の杖になりました。
とうとう 身一つとなったのです。