星のひとかけ

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「死のかげの谷」…雪、風、、そして落葉…:堀辰雄『風立ちぬ』

2017-12-02 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
12月になりました。。 (なってしまいました…)

すべてを放り出して走り出す12月の始まり、、、 のはずだったんですけど、 頭の中にずっともやもやしている翳にけりをつけておかないと先に進めない気がして、、 それで今回の本と、 もうひとつ本の事をまず先に書いておこうと思います。
(…何の事かさっぱりわからないですよね、ごめんなさい。。 自分の内面だけの問題…
 どうぞスルーして読書記のほうへ ↓)

 ***

先月、 堀辰雄の初期ファンタジー傑作集『羽ばたき』について書きました(>>)。 そのとき 「fantasy は、phantasy」 が元の言葉だと、、 それを考えたとき、 堀辰雄の 『風立ちぬ』の最終章、「死のかげの谷」のことが頭に浮かんできたのです。 、 はるか昔に読んだきりだったので 細かい描写は記憶していなかったけれど、 リルケの詩が引用されていたのは覚えていて、、 死者へ語りかける詩…

 帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢ができたら、
 死者たちの間に死んでお出(いで)。死者にもたんと仕事はある。
 けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
 しばしば遠くのものが私に助力をしてくれるように――私の裡(うち)で。



、、この詩は深く心に残っていて、、 「私」が感じる「お前」の存在…  それは「死者」なのだけれど、 在りし日のお前の「像・影」として感じ、その影と対話をすることによって次第に気持ちの整理をしていく… そういう終章だったと、、 そう記憶していたのです。  phantom につながる意味でのファンタジー(phantasy)、、 あぁ、、そういうことだったのか、、 とヒントを貰った気がして、 もう一度 「死のかげの谷」を読みたくなって、、

 ***

以下、 堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」から少し引用します。



 一九三六年十二月一日 K…村にて

 「ほとんど三年半ぶりで見るこの村は、もうすっかり雪に埋まっていた。 … その木皮葺きの小屋のまわりには、それを取囲んだ雪の上になんだか得体の知れない足跡が一ぱい残っている。…私はその小さな弟からこれは兎これは栗鼠、それからこれは雉子、それらの異様な足跡を一々教えてもらっていた。」


、、K村のひと気の無い別荘地、雪に包まれた12月、「私」は独り籠って ここで年末を迎えようとしています。


 一九三六年十二月十日

  「この数日、どういうものか、お前がちっとも生き生きと私に蘇って来ない。 …暖炉に一度組み立てた薪がなかなか燃えつかず、しまいに私は焦れったくなって、それを荒あらしく引っ掻きまわそうとする。そんなときだけ、ふいと自分の傍に気づかわしそうにしているお前を感じる。」


、、「気づかわしそうにしているお前」、、 それは在りし日の「お前」の姿、ぬくもり、表情、、 ここでは「お前」はそのような「在りし日の姿」を感じさせる存在として傍らに現れます。 そして、 雪のやんだ日、「私」は林の奥へ奥へと入っていきます。




 一九三六年十二月十八日

  「…そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではないもう一つの足音がするような気がし出していた。」

  
、、ここで 「お前」は在りし日の「像」ではなく 「足音」として現れます。
「… 私はそれを一度も振り向こうとはしないで… 」 、、確かな「足音」に気づきながらも振り向かずに「私」は、 最初に引用した リルケのレクイエムを口ずさむのです 「帰っていらっしゃるな」と。




 一九三六年十二月二十四日

  「…どこからともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。
  … 「御覧… ほらあっちにもこっちにも、ほとんどこの谷じゅうを掩(おお)うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。…」

、、クリスマスイヴの夜、 村人の家の晩餐に呼ばれた「私」は その帰り道、 住む人もいないはずの別荘地の谷に たくさんの「光」を見ます。 それは「おれの小屋の明り」があちこちまで照らしているのだと、 上記ではそう思っていますが、 実際に自分の小屋へ戻ってみると、、

 「…その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった」

、、谷じゅうをおおっていた「光」は幻だったのでしょうか、、




そして、 十二月三十日の晩、 「私」は小屋の外のヴェランダに立ち、 雪明りの林を見ています。 谷の向こうで 風がざわめいているのを「私」は聞いています。 その文末のあたり…


  「…また、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら… 」

、、雪明りの林はみな裸木になっています。もし木の葉が枝に残っていたとしても、 小屋の周りは雪に包まれているはず、、 「二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら… 」、、「さらさらと」…? 

、、ここで「私」が見ている「落葉」、 耳にしている「さらさら」という音、 それから クリスマスイヴの晩に谷じゅうをおおった「光」、、、

「帰っていらっしゃるな」というリルケの詩を境にして、 「お前」というかつての形ある存在で描かれていたものは、 それ以降、 谷の「光」へ、 「風」へ、、 そして実際にそこに有ったのかわからない「落葉」をうごかす「さらさら」という音へ、、と 「お前」はこの世界の万物と同化して、 「私」のもとへ現れているのだと理解できます。。 


… fantasy が、phantasy であることに気づいて、 やっと 「死のかげの谷」の終章の幻想について、 それは外部的には「幻想」なのかもしれないけれど、 「私」には実在であり、 リアリズムと言って一向に構わない知覚なのだと、 あらためて納得することができました。

 ***

「死のかげの谷」を思い出してこうして読み返していたら、、 2016年の6月に読んでいた ヨハン・テオリンのエーランド島四部作、、 その『冬の灯台が語るとき』のことが思い出されました。 やはり、 12月、雪に閉ざされた北欧の孤島の物語。 死者と生者、 現在と過去の人々が交差しながら、 深い喪失の心をゆっくりと埋めていく物語、、(>>

 「民間伝承では、その年に亡くなった人たちは、クリスマスにもどってくると言われています」

…と、『冬の灯台が語るとき』の解説の中でテオリン自身の言葉が書かれています。 この作品はそういう物語でした。 、、そして、 『風立ちぬ』の「死のかげの谷」の前の章は、 一年前の12月で終わっています。。 堀辰雄がテオリンの言うような民間伝承を知っていたわけではないでしょうけれど、、 なにか通じるものを想ったのです。。

 ***

、、 私自身には今年そのような出来事があったわけではありません。 ただ、、クリスマスは以前にも書いたことがありますが、 あまりにも幼く旅立っていったおおぜいの天使たちを思い出す季節です。 何十年経とうと、 決して忘れることのない 無辜の魂、、 透き通る肌と、 痛々しい針の刺さった手で触れ合った命。。


、、この12月


、、 よいクリスマスシーズンにしましょう…


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