気分がいいときにはサマーのさまざまな部分が全部魅力的に見えたのが、悪いとまったく同じものが全部不愉快に見えてくるあたりが傑作。
時間軸が行きつ戻りつする作りなのだが、ふつうに順を追って描いていったらいい感じになったり醒めてしまったりするのにいちいち理由づけが入るところを、幸せな日だと最初からすべてが祝福されていたみたいに感じ、落ち込んだ日には初めからすべてが合わなかったのだと思ってしまう、理由があって幸せに感じたり不幸せに感じたりするのではなく、感じ方によって出来事が理由づけられてしまう構造をうまくつかんでいる。
時間があってその上を人間が通っていくのではなく、人間があってその情動に応じて来し方行き方のありようが決められる。おおげさにいえばハイデガーみたい。
トムが一人で見に行く芸術映画の天使が中世の騎士とチェスをするという場面は、もちろんイングマル・ベルイマンの「第七の封印」の冒頭の死神と騎士が生死を賭してチェスをするシーンのパロディ。「第七の封印」では、騎士が「生」の意味を探してまわって結局見つからないのだけれど、天使が相手ということはその裏返しなのか。
「あらかじめ断っておくが、これはラブストーリーではない」、といきなりナレーションがカマす。客観的なナレーションはもっぱらサマーの方に添えられていて、トムの方はスルーしている。
トムの方は恋人同士になったつもりでも、サマーの方がどうもさめていて友だちのつもりでいる。二人の関係は対称ではなく、出来事は基本的にトムの方から綴られ、サマーはどうも何考えているのかわからず、トムを 傷つけ、すれ違う。一段上の存在という感じもする。
一番ドツボにはまった状態だと、時が死ぬほどのったりのったりしてくるのを日付のカウントを一日ごとからさらに半日あとと、刻みを細かくしていくことで表現するなど才気走った表現。
(☆☆☆★★)

本ホームページ
(500)日のサマー - goo 映画
時間軸が行きつ戻りつする作りなのだが、ふつうに順を追って描いていったらいい感じになったり醒めてしまったりするのにいちいち理由づけが入るところを、幸せな日だと最初からすべてが祝福されていたみたいに感じ、落ち込んだ日には初めからすべてが合わなかったのだと思ってしまう、理由があって幸せに感じたり不幸せに感じたりするのではなく、感じ方によって出来事が理由づけられてしまう構造をうまくつかんでいる。
時間があってその上を人間が通っていくのではなく、人間があってその情動に応じて来し方行き方のありようが決められる。おおげさにいえばハイデガーみたい。
トムが一人で見に行く芸術映画の天使が中世の騎士とチェスをするという場面は、もちろんイングマル・ベルイマンの「第七の封印」の冒頭の死神と騎士が生死を賭してチェスをするシーンのパロディ。「第七の封印」では、騎士が「生」の意味を探してまわって結局見つからないのだけれど、天使が相手ということはその裏返しなのか。
「あらかじめ断っておくが、これはラブストーリーではない」、といきなりナレーションがカマす。客観的なナレーションはもっぱらサマーの方に添えられていて、トムの方はスルーしている。
トムの方は恋人同士になったつもりでも、サマーの方がどうもさめていて友だちのつもりでいる。二人の関係は対称ではなく、出来事は基本的にトムの方から綴られ、サマーはどうも何考えているのかわからず、トムを 傷つけ、すれ違う。一段上の存在という感じもする。
一番ドツボにはまった状態だと、時が死ぬほどのったりのったりしてくるのを日付のカウントを一日ごとからさらに半日あとと、刻みを細かくしていくことで表現するなど才気走った表現。
(☆☆☆★★)

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