prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ツリー・オブ・ライフ」(二回目)

2011年09月24日 | 映画
最初見たときには正直いささか当惑して、しかしわからないなりに何かひっかかるものがあったので、最近では珍しく劇場に二度見に行った。

一回目に見た時の文章とだぶるところも矛盾するところもあるが、二回目に見たのは「別のもの」だから調整をはかることはしなかった。

当惑した理由を考えてみると、要するにどんな視点でみればいいのかわからなかったからで、「2001年宇宙の旅」で省略されている人間たちの部分をメインにしたようなもの、と考えると、一般的な評価の低さ・わけがわからないといった不満も共通のものと思える。
「これを一回で理解されたら、われわれの目的は失敗したことになる」というのはキューブリックの言葉。

マリックの作品のひとつの共通点に水の描写がある。
「天国の日々」で夜にリチャード・ギアとブルック・アダムスの主人公二人が逢引するシーン、川の中に入ってワインを飲みながら歩き回るのだが、その投げ捨てたワイングラスがすでに水底にあって登場人物たちには見えなくなっているのに、一匹の魚がそばを泳ぎすぎる。
そしてギアが射殺された刹那、川に倒れこんだ顔を水底からのアングルで見上げて捉え、水底にある普遍的命=アニマの視点、を示す。

そして「シン・レッド・ライン」の水棲生物たちの描写。
「ニューワールド」も水の中のアメリカ先住民たちの描写から始まり、新しく大陸にやってきたキリスト教徒のイギリス人たちを迎える。

「ツリー・オブ・ライフ」では自然の大瀑布が、ショーン・ペンが手に当てる水の先に、まぎれもなくつながっている。

「天国の日々」のイナゴの襲来や、「ツリー…」の聖書のヨブ記のエピグラフなど、明らかにキリスト教的モチーフが強い一方、自然描写において人間が自然を見ているのではなく、自然の中のあるものがこちらを見ている、というニュアンスがある。
たとえば最近の自然ドキュメンタリーの大方は、あくまで人間が見た、人間の生存に必要だから保護すべき自然として、ニューワールドのイギリス人の子孫によって作られたものと言える。

そうするとここでの水から上がってきた恐竜たちのCGや、ナショナル・ジオグラフィック的に壮大な、「神」の視点的映像はやはり違和感を残す。「2001年」ではモノリスという抽象化された形で「神」を対象化したが、そういう操作はこれといってなされているとは思えなかった。

あとマリックの作品で特徴的なのは誰に向かって投げかけられているのかわからないナレーションで、聖書のヨハネによる福音書の冒頭「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」というくだりと並べたくなる。

冒頭にやはり聖書の「ヨブ記」からのエピグラフが掲げられるが、これはもっとも信仰厚く勤勉篤実な男ヨブを、本当に神に忠実なのかわかったものではないと主張する悪魔と論争になった神が、ヨブを試すために彼のすべての財産と家族を奪い皮膚病で全身を覆うという理不尽で残酷な物語で、カーク・ダグラスは自伝で子供のとき怖くて仕方がなかったと語っている。
その神はおそらくこの映画の父の似姿なのだろう。

わからないから何度も見る、ということを長らくしなかったが、これもそうなるかもしれない。

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