prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ドライブ・マイ・カー」

2021年09月09日 | 映画
西島秀俊の演出家がまず俳優たちに感情をこめずに棒読みさせるというもので、この映画の濱口竜介監督自身がそういう風に演出するという。

ブレッソンが職業俳優を使わず、セリフはあえて棒読みさせるというのは有名で、彼の「シネマトグラフ覚書」を若い頃の西島秀俊が読んでいて、今になってそこに帰るとは思わなかったとインタビューで言っていた。あれは職業俳優否定論なのだから皮肉な気もする。

また、やはりその頃に影響を受けたジョン・カサベテスの全部シナリオに書いてあるセリフを言っているにも関わらずその場でコトバが生成させる演出術にも回帰してきたともいう。

ベルイマンは演劇を演出する際に俳優にセリフを初めから暗記しないようにして、動きが固まっていくに従って身体に染み込ませるようにセリフを覚えていくよう要求するというがいったん他人の言葉を自我を消して運ぶうちにかえって俳優自身も意識していない自我が出てくるといった不思議な出来事があるらしい。

黒澤明はカメラに一番写るのは自意識なんだ、としきりと言っていて、非常にオクターブの高い演技をさせることで自意識を取り去るといつたやり方をしていたと思しい。演出家によってやり方は色々。

初めて見た多言語演劇というと蜷川幸雄演出のギリシャ悲劇「オイディプス」で、イオカステ役のギリシャ女優はギリシャ語でセリフを言い、平幹二朗は日本語で言うというもの。
それで実際に違和感がないのだから不思議。

ここでは北京語・韓国語に加えて韓国語の手話も混ざるが、字幕が入る映画では自然に収まる。
ここでのセリフ=言葉は単純に感情を乗せる道具ではない。

フェリーに乗って降りたところに雪が積もっているので一瞬韓国に渡ったのかと思った。

家福も渡利もタバコを吸う。高槻も喫煙者であることがわかる。
初めは車内では吸わないのだが、あるきっかけから二人車内で同時に吸うようになり、タバコの火の受け渡しなど、映画で見るの何十年ぶりかと思うほど。
後部座席に人が座るには前の座席を倒して通らなくてはいけない動きを生かして自然に助手席に移るのが上手い。

音楽を聞くのはもっぱらLPレコードで、パソコンを使ってるいるのだからデジタル機器を忌避しているわけもなく、意識的にちょっと前の身体感覚の広がりにこだわっている感じ。

コトバが政治や行政からSNSまでとにかく雑に扱われている中でその重み、人間の思考を担い人を人間たらしめる重要性を確認するような映画。
映画は映像で語るものでコトバに頼るのは良くないといった漠然とした思い込みを否を突きつける