必ず行動を共にするパートナーを示す「バディ」という言葉が一つのキーになるわけだが、「バディ・フィルム」というジャンルが特にアメリカ映画では発達している。伊丹十三の受け売りになるが、互いに違う習慣・文化を背負う二人が心ならずも一緒に行動しなくてはならなくなり、反目や喧嘩を越えて互いに認めあうようになる、というドラマの型のことだ。
ところが、ここでは異質な二人がいかに対立を乗り越えるか、ではなく、伊藤淳史の振るまいのように初めからあやまって対立を回避することが先にきて、感情的な行き違い以上の本当の対立にはならない。
クライマックスで規則を破った藤竜也を訓練生たちが庇うのも、身内意識という感じが強い。あれで伊藤英明たちが助かっていたからいいようなものの、助かっていなかったら(その可能性は十分にある)責任のなすりつけあいになってムチャクチャになっているところだ。
二人共倒れになるより、一人を犠牲にして一人が助かるという方が非情なようだが「正しい」のだ。心構えがどうだろうと、酸素がなくなれば人は死ぬのだから。情に流されるのが人間的で、そのためには規則を破ってもいいのだったら、裏返すと何やってもいいことになる。
と、まあ感動させようとしているツボが、こっちの目にはいささかズレて写るが、訓練の描写で本物の装備を使い役者が本当に体を張る迫真感は、大いに見せる。ただカットを割り過ぎていて、どの程度息を本当に止めているのだろうかと余計なことを考えさせる。
エンドタイトルの後が意味不明だったが、続編を作るつもりらしい。作るのはいいけど、「ゴジラ」シリーズみたいなセンスで、かえって期待を削ぐ。
関係ないけど、「ゴジラ final」の予告でまたカンフーまがいをやっている。この監督、他に頭の中に入っていないのか。(後註・さらにMI2まがいのバイクチェイスもやっているよう。ったく)
(☆☆☆)
ところが、ここでは異質な二人がいかに対立を乗り越えるか、ではなく、伊藤淳史の振るまいのように初めからあやまって対立を回避することが先にきて、感情的な行き違い以上の本当の対立にはならない。
クライマックスで規則を破った藤竜也を訓練生たちが庇うのも、身内意識という感じが強い。あれで伊藤英明たちが助かっていたからいいようなものの、助かっていなかったら(その可能性は十分にある)責任のなすりつけあいになってムチャクチャになっているところだ。
二人共倒れになるより、一人を犠牲にして一人が助かるという方が非情なようだが「正しい」のだ。心構えがどうだろうと、酸素がなくなれば人は死ぬのだから。情に流されるのが人間的で、そのためには規則を破ってもいいのだったら、裏返すと何やってもいいことになる。
と、まあ感動させようとしているツボが、こっちの目にはいささかズレて写るが、訓練の描写で本物の装備を使い役者が本当に体を張る迫真感は、大いに見せる。ただカットを割り過ぎていて、どの程度息を本当に止めているのだろうかと余計なことを考えさせる。
エンドタイトルの後が意味不明だったが、続編を作るつもりらしい。作るのはいいけど、「ゴジラ」シリーズみたいなセンスで、かえって期待を削ぐ。
関係ないけど、「ゴジラ final」の予告でまたカンフーまがいをやっている。この監督、他に頭の中に入っていないのか。(後註・さらにMI2まがいのバイクチェイスもやっているよう。ったく)
(☆☆☆)