prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「男はつらいよ お帰り 寅さん」

2020年01月16日 | 映画
かなり面妖な映画だった。
肝腎の寅さんがどうなったのか、生きているのか死んだのかどうなったのかよくわからない。

おいちゃんおばちゃんを始め何人も登場人物が亡くなっている設定なのだから、人が年取ったり死んだりもする世界なのは明白なのだが、タイトルに「お帰り」と銘打ってある割にもちろん現実の渥美清が亡くなっている以上本当に帰ってくる場面を作れるわけもない。

いや、先日の紅白歌合戦でAI美空ひばりなどというものが登場したようにAI寅さんなどというものを技術的には作れないでもないか知らないが、しかしそれくらい寅さんの世界と無縁、というより正反対の存在もないだろう。

過去の「男はつらいよ」の抜粋を満男(吉岡秀隆)と泉(後藤久美子)の再会話に交えて編集して、寅さんが姿は直接見せないながら見守っているような不思議なニュアンスを持たされていて、もとのシリーズでも次第に寅さんは生身の人間というより聖化された天使みたいな存在になっていったのだが、存在しているのかどうなのかわからないまま帰ってくるのを妹のさくらはじめ待っているようでもあり、何やら「ゴドーを待ちながら」のゴドーみたいですらある。

面妖といったら、おいちゃんが森川信、村松達雄、下條正巳と三人いるのを場面によって変わっているのをそのまま使っていたり、
泉の父親役がシリーズでは寺尾聰だったのが橋爪功になっているのも面妖。

最も不思議なのは渥美清の芝居そのもので、いわゆる寅のアリアは入れてない割に、抜粋された芝居がコンテクストを離れてもそれ自体が独立した見せ場になっているのに驚いた。
レストアされたピカピカのプリントで若々しい渥美清の姿が現れると、こちらの方が存在感としては強いくらい。

ラストで歴代のマドンナをずらずらっと繋げて見せるところで本来マドンナではない田中絹代が混ざっている。日本映画史での存在の重みに敬意を表したピックアップという感じ。

黒澤明にせよ新藤兼人にせよマヌエル・ド・オリヴェイラにせよ、高齢の作家は生死のあわいが曖昧になったような不思議な世界に突入する傾向がかなり普遍的に見られると思うが、山田洋次もかなり前からその仲間入りしている。

「男はつらいよ」シリーズではエンドタイトルというものがなく、「終」の文字が出たらさっと幕が閉じたものだが、今では終の文字も幕自体もなく長々と主題歌に乗せてエンドタイトルが流れる。本来冒頭に来る歌が終りに流れるものだから、時間感覚が狂う。

作中に使われる写真の著作権者として広川隆一の名前が出る。現在セクハラパワハラで訴えられている人の名前に、寅さんはある時期日本映画で(古い意味の)フェミニストの孤塁を守ってた存在だっただけにすごい違和感を覚える。





1月15日のつぷやき

2020年01月16日 | Weblog

「パラサイト 半地下の家族」

2020年01月15日 | 映画
広い意味での闖入者ものだが、安部公房の「闖入者」パゾリーニの「テオレマ」などは闖入される中産階級の人間の視点から描かれることが多かったが、ここでは闖入する側から描いているのが珍しい。

相対的に貧困状態に置かれているのだがそこで自嘲や無気力に陥ることなくふてぶてしく加害者側に転向するタフネスが見事。日本だと加害者側すら被害者意識に凝り固まることが多いのと対照的。日本で加害者意識で映画を作ったのは、ほとんど増村保造だけではないかと思ったりした。

考えてみると、一家は貧困に置かれていても実は十分な能力を持っている。家庭教師にせよ、運転手としても、家政婦としてもそれぞれ能力があるから金持ち一家に潜りこめてのでもあるし、逆に言うと能力があってもそれに見合った収入をまっとうな方法では得られないということでもある。

随所に南北分断の影が落ちているのは、言い方悪いが韓国映画の武器でもあるだろう。

街全体の高低差、屋敷の中の高低差を即格差として視角化した造形力が見事。
プロダクション・デザインが本当に秀逸。

相当に笑える映画だと思うのだが、満席フルハウスの客席からは意外と笑い声が起きず。やや真面目に見過ぎている気もした。





1月14日のつぶやき

2020年01月15日 | Weblog

「ほえる犬は噛まない」

2020年01月14日 | 映画
大型団地を舞台にして上下と左右に広がる空間を把握し、社会的な立場とドラマ上の位置づけを反映させる映画的感覚が秀逸。
ポン・ジュノはこの2000年のデビュー作ですでに空間に対する優れた嗅覚と象徴性を見せている。

韓国人は犬を食べると揶揄されるのを逆手にとってグロテスクな、その割に精錬されたユーモアが随所に挟まれる。

世渡りが下手で燻っている人間が学歴の多寡を超えて結びつく作劇も「パラサイト」に通じる。
ペ・ドゥナの不機嫌な可愛さが可笑しい。そういえば是枝裕和とも組んだことあったが、先日のジュノとの対談(まだ見てない)で話に出ただろうか。



1月13日のつぶやき

2020年01月14日 | Weblog

「魂のゆくえ」

2020年01月13日 | 映画
世界の破滅といった直接個人がどうこうできそうにないことを本気で恐れなんとかしようとジタバタし、結果かえってカタストロフをもたらしてしまう、といった人物は黒澤明の「生きものの記録」の中島老人、「冬の光」の漁師、「サクリファイス」のアレクサンデル、おそらくその親戚に「タクシードライバー」のトラヴィスもいる。


かつては破滅をもたらすのが核兵器だったのだが、最近だと環境破壊に移ってきていて、その分身近で、恐怖にとりつかれたキャラクターも前ほどエキセントリックには見えなくなってきた感はある。
セカイ系とも近いところがあるかもしれない。

ポール・シュレイダーはキリスト教でも最も厳格で禁欲的なカルヴァン派の家庭に育ち、17歳まで映画を見たことがなかったというが、今日での先行する映画群への自分の世界への編み込みようを見ていると、信仰の対象が映画に振れ、その新しい信仰がまた本来持っている原罪感へと投げ返している感がある。

タルコフスキー「サクリファイス」の空中浮遊、ブレッソン「田舎司祭の日記」の日記による語り(「タクシードライバー」の日記にも通じるだろう)、ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」「奇跡」の白のイメージの舞台になる教会の内装外装への投影、「冬の光」の信仰を持てず好きでもない女に好意を寄せられ迷惑がる聖職者、などなど。

ただ、それらを編み上げるにあたって独自のスタイルをまだ作り出してない印象は拭えない。かつて宗教や文化の違いを超えて映画的スタイルの追求が超越者への接近をもたらす大学の修士論文「聖なる映画」(「映画における超越的スタイル」 Transcendental  Style of The Films)で論じたわけだが、スタイル意識はあっても実践は未だしというところ。





1月12日のつぶやき

2020年01月13日 | Weblog

特別展 ミイラ ~「永遠の命」を求めて

2020年01月12日 | Weblog
世界各地のミイラ大集合。
肉体を保存することで死後の世界の復活を望んだり、生前の世界の延長を望んだり、バリエーションはあるにせよ、一貫しているのは死にどう相対するかという普遍的なテーマだった。

各地の気候によって自然乾燥してミイラになりやすい場合と、日本を含む東アジアでは土が酸性でもあって骨も残らないなど、死生感にも違いが出てきているのかもしれない。

この展覧会の一種の目玉になっている柿の種を生前大量に食べて肉体の保存に供した幕末の本草学者や即身仏など、日本のミイラは妙に凝っている気がする。

他人の腕を入れて形を整えたり、仏像の中にミイラが詰めこんであったりと、CTスキャンによる調査の成果がわかりやすくミイラの実物の隣で30秒程度の短い映像のループで示されるあたり、こういう展示、プレゼンの技術やセンスもずいぶん進歩したものだと思わせる。

国立博物館のグッズ売り場に周期律表トランプというのがあるのが面白かった。通常のトランプとは違って18枚で一巡するというもので、自然と元素記号と元素名、周期性が頭に入るという仕掛け。




1月11日のつぶやき

2020年01月12日 | Weblog

「玄牝(げんぴん)」

2020年01月11日 | 映画
自然分娩専門の施設に集まる女性たちと産まれた子供たち、ほぼ唯一の男である医師を追うドキュメンタリー。

とはいえ、自然光に煌めく木々や木造建築などこの監督(河瀨直美)映像のスタイルは一貫している。
自然分娩の医学的な側面についてはさっぱり説明しないので、もやっとした空気がずうっと続くことになり、それがある種の生命感(特に出産シーンそのもの)に触れているのと同時に、正直かったるさとある種の気味悪さも併せ持つ。

出産の光景をもろに撮っているあたり「極私的エロス」と通じるところがあるが、それを見る視角がまったく違う。単純に撮る人の性差に落とし込むのは慎むべきかもしれないが、無関係ではありえないだろう。



1月10日のつぶやき

2020年01月11日 | Weblog

ポーランドの映画ポスター展(国立映画アーカイブ)

2020年01月10日 | 映画
とにかく映画そのもののスチール写真はまず使わず、デザイナーの独自の解釈によるものばかりというのに驚く。
↑が「暗殺の森」


↑これが「ノスタルジア」のポスターなのだから、驚くほかない。

西側の映画も盛んに公開されていたのもわかる。日本の「藪の中の黒猫」など最近の「キャッツ」かと思わせる



1月9日のつぶやき

2020年01月10日 | Weblog


「家族を想うとき」

2020年01月09日 | 映画
夫は荷物の配達、妻は訪問介護の仕事だからさまざまなところを訪れる、その先々のスケッチひとつひとつに背景と膨らみがある。キャスティングの見事さが光るところで、主演の家族四人にしてもほとんど無名の人たちという意味でほとんど実は訪問先のキャスティングと変わるところがない。

結果として彼らをへとへとになるまで働かせる直接の対象なのだが、訪問先の階級もおそらく上の階級ではない。
夫を搾取する上司にしても実態は中間管理職だろうし、成績があげられなければ簡単に取り換えられる存在にすぎないのが透けて見える。万引きした息子に説教する警官とともにこの上司がスキンヘッドというのが印象的で、何か無機質な人間性の欠落、システムの論理との一体化を感じさせる。

格差社会の中の貧困を描いた作品、には違いないのだが、かつてのブルジョアとプロリタリアートの二項対立で捉えるには敵役であるところの資本家の姿が見えにくくなっていて、とりあえず見えるのは動かしがたい巧妙に逃げ道を塞いでいるシステムの方だ。それは独立心やプライドといったプラスに見える感情として内面化されているからなお始末が悪い。

正直、巧妙に姿を隠している大資本そのものの姿を可視化するのが難しいのはわかるが、やはりそこまで突っ込まないと不完全燃焼の感は残る。