prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「竜とそばかすの姫」

2021年09月15日 | 映画
大画面で見ると異世界の描き込みが凄い。
歌姫が歌で人気を博するという設定でちゃんと実際の歌に説得力があるのは大したもの。

ヒロインのそばかすがアバターでは誇張されて見ようによっては醜く見えるのが微妙。
現実は醜くて仮想現実は美化されているといった2項対立では必ずしもない。
仮想世界では華やかな人気者なのが現実では自信のない引っ込み思案な子ではあるけれど、仮想世界の人気が現実の代わりにはならない。

四国の風景の空気感がよく出ているが、これもまた自然とサイバースペースが必ずしも対極にあるわけではない。
幼馴染の男の子とのロマンスになるのかと思ったら、そういう展開にはならないけれどずいぶん男の子が頼りがいがあるのが意外でもあるし気持ちよくもある。




「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」

2021年09月14日 | 映画
スターリンの独裁ぶりがまだ明るみに出ていない頃にソ連に潜入した西側ジャーナリストの話だが、勇気ある告発はしたものの結局は不発に終わるあたりは実話らしく苦味が強い。

列車の中でリンゴをむいて皮を捨てると客たちがどっと集まってくるあたりの餓えの表現が強烈。

それにしてもリアルタイムで「正しい」報道をすることの難しさを思う。
もともとその時の最新の情報を伝えることが第一の役割なのがそれ自体が既定事実として居座ってしまい訂正がききにくくるか、後から訂正すると信用を損ねるように見えてしまう。
為政者は初めからそれを承知でプロパガンダを入れてくるわけだし、えてして後知恵で当時本当のことがわからなかったのをバカにしがちだが、今起きていることとなると昔以上にわかっていないだろう。
(ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ)




「モロッコ、彼女たちの朝」

2021年09月13日 | 映画
モロッコ映画が日本で公開されるのは初めてだというが、特に違和感もエキゾチズムもなく当たり前の人間特に女性の理不尽な扱いとことさらに二人のドラマチックな対比を際立たせずに平行し時折交錯する生を楷書タッチで描いている。

パンをこねる、その柔らかい感触がそのまま生活と生の基本の表現になっている。

日本のスーパー映画字幕第一号のディートリッヒとクーパーの「モロッコ」と比べることもないが、エキゾチズムの象徴、つまりそれだけ遠くのものだったモロッコイメージから本物のモロッコ映画が来日するまで何年かかったのか。(1930年の映画だからほとんど1世紀)。




「孤狼の血 LEVEL2」

2021年09月12日 | 映画
最近の日本映画には珍しく韓国映画的なエクストリーム感がある。
それだけでなく韓国国籍のヤクザをはっきりわかるように描くのはヤクザ映画量産期には逆に難しく、“殺しの柳川”こと柳川次郎(梁 元鍚=ヤン·ウォンソク)をモデルにした「京阪神殺しの軍団」でもわかる人にはわかるという描きかただった。
ここでははっきり大韓民国のパスポートを持っている。
それがそれほど驚きとか違和感なく自然に描かれるのは、やはり時代の変化、進歩だろう。

ここではヤクザ組織にせよ警察組織にせよ、すでに自壊をしていて権威はもちろん将来性もなく、ただのゾンビ的な延命が至上命題になっているのが現代風。
バブル期を舞台にしているのだが、鈴木亮平の狂犬キャラクターは金銭そっちのけで個人的な復讐心すら超えた異様な殺気で突っ走り、自ずと抗争を起こさせない仕切っていたようだった松坂桃李の方もまたアウトロー化してはぐれ狼同士的に一種のバディ化して突き抜ける快感。
明らかに3作目を視野の入れた作りだが、ある種の成長物語(ビルドゥングス・ロマン)になるのかもしれない。

刑務所の中の鈴木の看守の顔を覚えておくけんのう、というのは「仁義なき戦い 広島死闘編」の北大路欽也の方のセリフだろう。
役割は同作の狂犬大友勝利(千葉真一)だが。
終盤に「県警対組織暴力」的なシーンあり。

眼をつぶすという表現に、単なる残酷趣味ではない見られたくない、見下げる視線に対する反感を象徴的に出した。

他のヤクザたちがシノギに明け暮れている中で、鈴木は暴力でカネより手っ取り早く人に言うこと聞かせる。どこか「ダークナイト」のジョーカーのようにカネを超越したような人間の衝動の原形質のようなものを覗かせる。

暗めでざらっとした画面の感触はフィルムっぽいけれど、たぶんデジタルでそういう効果出したのではないか。

自分で悪いことをしていると自覚している奴より、どうかすると正しいことをしていると思って酷いことをしていると相棒になる中村梅雀の公安が言うセリフが全体のひとつのテーマになるのだが、それ自体は「県警対組織暴力」の汐路彰の公安の「ヤクザなんちゅうてもよ、アカに比べれば可愛いもんじゃ」から来ているのではないか。
共産主義が結果として独裁になったこともだが、それを口実にして公安が予算をパクる、暴力団の抗争を口実にして警察が手柄を作る構造をはっきり描いた。癒着ではなく、警察が暴力団を口実にしたのだ。正義面とは警察そのものの本質なのをもろに描いた。骨のある仕事。

正義面のまた別の一派が新聞マスコミということになる。
テレビはここでは出てこないが、今のテレビの警察24時あたりのベタベタ見るといい。

ヤクザが広島弁を縦横に操るのはもちろん「仁義なき戦い」の再生というか後継だけれど、警察上層部の滝藤賢一、セコい親分の吉田鋼太郎など、セリフ術がしっかりした役者たちが縦横に広島弁を操るとヤクザの柄の悪さだけにとどまらないコトバの表現力の豊かさと快感がまた格別のものがある。

鈴木亮平の部屋の掛軸には「天下布武」とある。織田信長のように過去の権威など一切無視するという宣言みたいなことか。
終盤で完成させる全身の刺青には「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」と読める。相撲界などで見聞きする言葉だが、元は法華経で仏道のためには身も命も惜しまないの意味。アイロニーもいいところ。




「ザ・スーサイド・スクワッド  “極”悪党、集結」

2021年09月11日 | 映画
カネを思い切りかけたZ級映画の再生。
血しぶきが花びらの乱舞になる飛躍、思いきった悪趣味、グロテスク。

毒をもって毒を制す式のストーリーがもっと上位の身内の毒を制す構造がしっかりしていて、ハチャメチャな場面だらけの割に破綻はしそうでしない。

ハーレイクインのキャラクターが大勢に混ざったのに、というより混ざったため前作よりずっと魅力的。




「劇場版 アーヤと魔女」

2021年09月10日 | 映画
あれ、これで終わり?というのが正直な感想。
原作を読んでないのでわからないのだが、シリーズものの初回スペシャルみたい。

ヒロインのアーヤは人を操るのに長けているからアーヤというダジャレみたいなネーミングだが、登場する英語の文字をディズニーみたいに無理やり日本語に直してないのはいいけれど、原作ではどうなっているのか。

孤児院に赤毛の女(なんだかアイルランド人のイメージみたいと思った)に置いていかれた赤ん坊が成長したのがアーヤなのだが、他に12人の魔女がいるのから逃れた、というその他の大勢の魔女が出てこないし、アーヤが従えている男の子が途中から出てこなくなるのもSP版みたい。

魔女かと思った青い髪の養母が受注している魔法というのが隣の家のダリアを枯らすとかバカにセコい。
「千と千尋の神隠し」の湯婆婆みたいに悪役と見せて着地というのともかぶるが、なんでそうなっているのかわからない。

キャラクターデザインが骨格や筋肉を感じさせるのは日本製3DCGでは珍しく、高畑勲が「おもひでぽろぽろ」でやりかけて2Dではうまくいかなかったのにむしろつながる。

黄色いFIATはルパンから来たものっぽい。




「ドライブ・マイ・カー」

2021年09月09日 | 映画
西島秀俊の演出家がまず俳優たちに感情をこめずに棒読みさせるというもので、この映画の濱口竜介監督自身がそういう風に演出するという。

ブレッソンが職業俳優を使わず、セリフはあえて棒読みさせるというのは有名で、彼の「シネマトグラフ覚書」を若い頃の西島秀俊が読んでいて、今になってそこに帰るとは思わなかったとインタビューで言っていた。あれは職業俳優否定論なのだから皮肉な気もする。

また、やはりその頃に影響を受けたジョン・カサベテスの全部シナリオに書いてあるセリフを言っているにも関わらずその場でコトバが生成させる演出術にも回帰してきたともいう。

ベルイマンは演劇を演出する際に俳優にセリフを初めから暗記しないようにして、動きが固まっていくに従って身体に染み込ませるようにセリフを覚えていくよう要求するというがいったん他人の言葉を自我を消して運ぶうちにかえって俳優自身も意識していない自我が出てくるといった不思議な出来事があるらしい。

黒澤明はカメラに一番写るのは自意識なんだ、としきりと言っていて、非常にオクターブの高い演技をさせることで自意識を取り去るといつたやり方をしていたと思しい。演出家によってやり方は色々。

初めて見た多言語演劇というと蜷川幸雄演出のギリシャ悲劇「オイディプス」で、イオカステ役のギリシャ女優はギリシャ語でセリフを言い、平幹二朗は日本語で言うというもの。
それで実際に違和感がないのだから不思議。

ここでは北京語・韓国語に加えて韓国語の手話も混ざるが、字幕が入る映画では自然に収まる。
ここでのセリフ=言葉は単純に感情を乗せる道具ではない。

フェリーに乗って降りたところに雪が積もっているので一瞬韓国に渡ったのかと思った。

家福も渡利もタバコを吸う。高槻も喫煙者であることがわかる。
初めは車内では吸わないのだが、あるきっかけから二人車内で同時に吸うようになり、タバコの火の受け渡しなど、映画で見るの何十年ぶりかと思うほど。
後部座席に人が座るには前の座席を倒して通らなくてはいけない動きを生かして自然に助手席に移るのが上手い。

音楽を聞くのはもっぱらLPレコードで、パソコンを使ってるいるのだからデジタル機器を忌避しているわけもなく、意識的にちょっと前の身体感覚の広がりにこだわっている感じ。

コトバが政治や行政からSNSまでとにかく雑に扱われている中でその重み、人間の思考を担い人を人間たらしめる重要性を確認するような映画。
映画は映像で語るものでコトバに頼るのは良くないといった漠然とした思い込みを否を突きつける




「Summer of 85」

2021年09月08日 | 映画
原題が「俺の墓で踊れ」なのだが、この表現を初めて目にしたのはベルイマンの自伝で自作を酷評した批評家相手に「こいつが死んだら墓の上で踊ってやる」の罵る件があって、ベルイマンらしいキツい表現だなと思っていたら、他でも使う場合があるのがわかった。慣用句の一種なのだろうか。

ただ、この場合は愛情のやや屈折した表現であることが違う。




「大頭脳」

2021年09月07日 | 映画
結果として彼の逝去の直前に見ることになってしまった
ベルモンドもよく刑務所から脱獄する役やります。
自由人の逆説的なイメージにかもしれない。

大スター共演で、ベルモンド主演作としても特に製作費がかかっていることが画面からもわかる。

舞台の「シラノ·ド·ベルジュラック」の日本公演を見逃したのが悔やまれる。
映像は見返せるけれど、舞台は不可能。ただ、映画も一期一会的な見方が増えてきた。コンテンツが多すぎるからか。

これがもっとしたら好きなアイテムを集中することになるかもしれない。

ベルモンドに関しては案外と見ていないからこれから見ていこうとした矢先。






2021年8月に読んだ本

2021年09月02日 | 映画
読んだ本の数:22
読んだページ数:5006
ナイス数:3





読了日:08月01日 著者:トマス ピンチョン







読了日:08月01日 著者:トマス ピンチョン
読了日:08月03日 著者:真鍋昌平






読了日:08月05日 著者:井上 雄彦






読了日:08月06日 著者:萩尾望都






読了日:08月08日 著者:松谷 明彦






読了日:08月09日 著者:ブレイディみかこ






読了日:08月09日 著者:明石昇二郎






読了日:08月11日 著者:宮本 百合子






読了日:08月12日 著者:中井英夫






読了日:08月12日 著者:中井英夫






読了日:08月14日 著者:鹿島 茂






読了日:08月14日 著者:鹿島 茂





読了日:08月14日 著者:中 勘助






読了日:08月16日 著者:幸村 誠






読了日:08月17日 著者:近代食文化研究会






読了日:08月21日 著者:佐藤秀峰






読了日:08月23日 著者:岩田 健太郎






読了日:08月23日 著者:みなもと 太郎





読了日:08月24日 著者:真鍋昌平






読了日:08月25日 著者:木村きこり





読了日:08月25日 著者:木村きこり