オリジナルより40分も短い。それは主に後半の通夜の場面が大幅に整理されていることによる。
通夜という親戚や役所の上司や部下や近所の人たちなどあらゆる関係者が一度に会する通夜の場面は、イギリスを舞台にしたので葬儀後の会食や列車の中の会話などに分割された。
オリジナルではこの通夜は芸達者の出演者たちがたっぷりと見せ場を振られている「芸の交響楽」(小林信彦)で、考えてみるとお話のスケールからするとこのリメイクのようなむしろ小品がふさわしいのが、全盛期の黒澤明の力量が噴出して異常なヴォリュームとスケールを持ったのが逆にわかる。
普通日本映画と外国映画のキャスティングを比べてみると外国の方が顔立ちにせよ人種にせよ多彩に感じることは多いのだけれども、この場合はオリジナルの方が多彩(ここではちらっとインド人であろう部下が目に入るのが工夫だし、イギリスらしい)。
時代設定は1953年とオリジナルとほとんど同じなのだが、雰囲気は全然違う。 日本の方がいったん戦争で焼け野原になってそこから復興していく一種 むんむんとした熱気と猥雑さがあるのに対し こちらのロンドンは いかにも端正で古式豊か。端的に言って、敗戦国と戦勝国との違いか(もっとも考えてみるとロンドンもV2ミサイルによって破壊されたわけだが、何事もなかったように復興されている)。
普通日本映画と外国映画のキャスティングを比べてみると外国の方が顔立ちにせよ人種にせよ多彩に感じることは多いのだけれども、この場合はオリジナルの方が多彩(ここではちらっとインド人であろう部下が目に入るのが工夫だし、イギリスらしい)。
時代設定は1953年とオリジナルとほとんど同じなのだが、雰囲気は全然違う。 日本の方がいったん戦争で焼け野原になってそこから復興していく一種 むんむんとした熱気と猥雑さがあるのに対し こちらのロンドンは いかにも端正で古式豊か。端的に言って、敗戦国と戦勝国との違いか(もっとも考えてみるとロンドンもV2ミサイルによって破壊されたわけだが、何事もなかったように復興されている)。
主人公が部下たちを呼ぶのにいちいちファミリー・ネームにミスターをつけるバカ丁寧ぶりは「日の名残り」の執事スティーブンスを思わせる。
役所の中で ほぼ 唯一主人公の意思を受け継ぐ 存在であるオリジナルの日守新一に当たる若者(アレックス・シャープ)を最初から前面に出して、ある程度その目を通して描くようになっている。
役所の中で ほぼ 唯一主人公の意思を受け継ぐ 存在であるオリジナルの日守新一に当たる若者(アレックス・シャープ)を最初から前面に出して、ある程度その目を通して描くようになっている。
同じくオリジナルの小田切みきにあたる 若い女性(エイミー・ルー・ウッド)が転職するのだがそれがどういう顛末をたどるかについてはよりリアルに寄せている。うさぎのおもちゃの使い方がリスペクトにはなっていてもオリジナルと性格が全然違っていて、時代の推移により女性の仕事のありようやモノを作る仕事というのが単純に空想的に扱えなくなった現れだろう。
一方で若者同士を接近させて未来につなげる工夫もしている。
冒頭のロンドンの風景は 当時の実際のロンドンの実写なのだが、それからドラマ部分に移行する色の調節などうまくいっている。 スクリーンサイズが 1対1.33 のスタンダード サイズ というのも 珍しい。 文字通りクラシックな枠組みがふさわしく、ラストにきちんとThe Endと出る。
あまりに宣伝でカズオ・イシグロの名前を出しているので、そこまでイシグロ色が強いのかと思ったら本当に強いのでちょっと驚いた 。
自分を抑えすぎるのが習い性になってどう感情を表現していいのかわからなくなってしまっているキャラクターが「日の名残リ」の主人公と一緒。ビル・ナイの抑制と集中に徹した演技は見事。
あまりに宣伝でカズオ・イシグロの名前を出しているので、そこまでイシグロ色が強いのかと思ったら本当に強いのでちょっと驚いた 。
自分を抑えすぎるのが習い性になってどう感情を表現していいのかわからなくなってしまっているキャラクターが「日の名残リ」の主人公と一緒。ビル・ナイの抑制と集中に徹した演技は見事。
演技と映像の端正さがまた大きな魅力。黒澤は「生きる」について、「まだ着飾ったシャシンです」と自作を評価しているが、リメイクではその「着飾った」(とばかり言えないと思うが)部分を削ぎ落としたと言えるかもしれない。
イシグロの小説作品は語り手の位置が徐々にずれていってどこまで信じていいのかわからなくなるところがあるのだが、黒澤の「羅生門」 こそ そういう多元的な語りの総本山みたいなものだろう。「生きる」でも後半に多彩な語りが交錯するのがまた交響楽的だった。
繰り返し挿入される螺旋状の階段のショットは同じことの繰り返しという役所のルーティンワークの表現であるとともに それが上の階下の階をつなぐ上昇機運につながりうることを示しているのだろう。