今日のフォト。
2024年は紅葉が遅く、11月12日のこの日
桜の葉は、少し色づき始めたところでした。
気持ちの良い秋晴れの中を歩く。
私の街の歴史を訪ねて。
散歩道の圏内に、幾つかの「塚」があります。
今まで通り過ぎるだけで、「由緒」なども
ゆっくりと読んだことがありませんでした。
ウォーキングで訪ねて行くと
風流優雅な昔話を知ることができます。
この日は三ヶ所訪ねて、5千歩余。
体に優しいお散歩でした。
2024年11月12日=5637歩。
万歩計の数値は、1日の歩数ではなく
ウォーキングの時だけのもの。
阿倍野区には、美味しい焼肉屋さんがあります。
この日の最初の目的地は、焼肉屋さんのすぐ近く。
左写真、ポストの前の道路はあべの筋。
こんなところに歴史の散歩道の「新つたい石」
つたい石から東に進んで突き当り。
「播磨塚・小町塚」
大阪市阿倍野区王子町4-3
民家に囲まれた場所にあります。
もともと別々のところ(畑の中)にあったもので
昭和4年に、この場所に移動されたようです。
播磨塚は南北朝の頃、住吉の合戦で
南朝の忠臣・楠正行に、山名・細川両将軍が率いる
北朝軍が敗れました。
敗軍の中には、播磨の太守・赤松円心の子
貞範の率いる播磨の武者が、多く戦死しました。
赤松円心は将兵の遺骨を納め、塚を築き
「播磨塚」と名付け、部下の冥福を祈りました。
小町塚は古書「芦分船」には
小野小町の塚であると説明していますが
小野小町がこの地で死んだという記録はありません。
この塚は、小町の美貌や才能に
あやかりたいとの念願から、信仰などの目的のために
造られたものと思われます。
播磨塚・小町塚から北へ歩くと、松虫交差点。
松虫交差点を左折(西へ)
松虫の踏切を渡って、進むとこんもりと緑(矢印)
ここがこの日の2つ目の目的地。
囲いの中は、「松虫塚」
「松虫塚」
大阪市阿倍野区松虫通1-11-5
松虫通の歩道には
歴史の散歩道のつたい石が長く続きます。
そして松虫塚の入り口に、つたい石。
中に入ると、幾つもの石碑があります。
昔この辺りは見渡す限りの野原で
秋には虫の声が聞こえ
特に松虫(今の鈴虫)の音色が美しく
松虫の名所とされていました。
歌碑。
秋の野に 人まつ虫の声すなり
わかれと行きて いざとむらわん
松虫塚の由来については、いくつかの説があり
古書「芦分船」には、後鳥羽上皇に仕えた
美しい姉妹の官女松虫と鈴虫が、法然上人の念仏に発心し
上皇が熊野詣の旅に出かけた留守中
宮中を抜け出して尼になります。
松虫塚は、姉妹が庵を結び隠棲した場所であると
伝えられています。
松虫塚の伝説は、他にもあります。
松虫塚には、藤棚があります。
かつては石碑の後ろに、樹齢800年の
エノキの御神木がありました。
その御神木は、2019年10月6日の台風で
折れてしまったのです。
「もうちょっと知っとく?私たちの阿倍野 難波りんご著」には
樹齢800年のエノキのある、松虫塚の写真がありました。
今はもう藤棚だけです。
台風から5年以上経ちましたが、枯れたエノキの幹が
「松虫塚」の石碑の後ろに残っています。
松虫塚から、東天下茶屋駅に来ました。
朝の通学時間帯です。
阪堺電車は、小学生にも人気もの。
中学生3人が通学路を歩く。
赤い幕は、線路沿いのお地蔵さん。
お地蔵さんの横を阪堺電車が通過します。
熊野かいどうを歩いて、「晴明丘公園」へ。
公園の入り口に石碑があります。
陽だまりに
忘れものして
駆けてった
あの子どこの子
探してウォーリー
「お~い、鉄棒の上、忘れもので~す」
「経塚」
大阪市阿倍野区阿倍野元町15
経塚には、聖徳太子説と空海説があります。
聖徳太子が諸経の文字を一石に一字ずつ書いて
納めたとするものと
空海が疫病流行に際し(826年)
阿倍王子神社で一千部の薬師経を書写し
祈願して納めたものとするもの。
経塚は昔は、畑にありましたが
1995年にここに移転してきました。
(参考=もうちょっと知っとく?私たちの阿倍野 難波りんご著)
熊野かいどうを南へ歩く。
忘れものにしては、デカすぎる。
源正寺桜門が見えてきました。
そして浜寺駅前ゆきの阪堺電車、パンダ号。
左上、ちょこっとあべのハルカス。
上町台地にはたくさんの遺跡が残っています。
てくてくしながら訪れるのには
距離に限界があり、残念な思いをしています。