エリア・カザン監督、グレゴリー・ペック主演の“紳士協定”をみた。
グレゴリー・ペックは社会派のルポ・ライター役。女房を亡くし、進歩的な雑誌に連載を始めるために、西海岸からニュー・ヨークにやって来た。
雑誌社の社長の姪のアイディアで、反ユダヤ主義を批判する記事を書くことになる。そして、常に対象の中に飛び込んで取材するというペックの流儀を活かすために、今回はペック自身がユダヤ人を装って、周囲の反応を伺うという手法をとることにする。
ルポ・ライターのよく使う手段ではあるが、このようなテーマの場合に、ユダヤ人を装うことがライターとしての倫理にかなっているのか、疑問に思った。とくに、自分の子供にまで、周囲に「ぼくにはユダヤ人の血が流れている」といわせるあたりは、相当に問題である。
かつて、鎌田慧さんが自らトヨタの期間労働者となって工場にもぐりこみ、『自動車絶望工場』を書いて、どこかのノンフィクション賞にノミネートされた際にも、審査委員の誰かが、執筆目的で労働者になったことを批判したことがあったが、それとこれ(“紳士協定”)とではわけが違うのではないか。
最初は意気投合して結婚まで約束する社長の姪に対しても、その「偽善」を強く批判して、決別してしまう。
結婚したら住もうとした彼女のお気に入りの地域には、暗黙のうちにユダヤ人を排除する「紳士協定」があるので、安らかな生活のためには地域ではユダヤ人を装わないでほしいという彼女の願いを退けたのである。
エリア・カザンの本当の標的は、諸々の解説によれば、製作当時のアメリカを覆っていた赤狩り=マッカーシズム批判であるらしいが、それは措くとしても、アメリカの反ユダヤ主義の凄まじさには驚く。
州立大学の入学者数を州の人種比率に応じて配分する政策なども、結局は頭脳優秀なユダヤ系学生に対する逆差別になるという批判があったが(バッキ事件)、背景にこの映画で描かれているような反ユダヤ主義もあったのだろうか。
ケースを飾っているレトロなアメリカ車とニューヨークの夜の通り、そしてグレゴリー・ペックの眉をしかめた表情につられて買ったのだが、なかなか厳しい内容の映画だった。
しかし、こういうメッセージ性の強い映画で堂々と主演を演じているグレゴリー・ペックがますます気に入った。
彼は、西部劇から“アラバマ物語”の田舎弁護士(あそこでは最終的にはアメリカ式「大岡裁き」?に終わっているが)、そして“紳士協定”のニュー・ヨークのルポライターまで、どれも似合っている。
リベラルが総崩れになってしまった「9.11」以後のアメリカに(入江昭『歴史を学ぶということ』講談社現代新書、163頁以下)、もしエリア・カザンが生きていたら、どんな映画を作るのだろうか。
* 写真は、キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[赤28] 紳士協定”(1947年、原題は“Gentleman's Agreement”)。