“ウィンチェスター'73”で見そめたシェリー・ウィンタースに会いたくて、“陽のあたる場所”を観た。
ここでは、貧しい農家出身の娘で、毎日縫製工場で水着を箱に詰める作業をするだけの女子工員役である。清楚といいたいけれど、役柄とはいえ野暮ったくて質素すぎる姿であった。この演技でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたというだけのことはある。
でも、やっぱり、“ウィンチェスター'73”の「酒場女」のほうがよかったなあ・・・。
成り上がろうという野心を抱いて同じ工場にやって来たモンゴメリー・クリフトが彼女と付き合い、妊娠させてしまった直後に、富豪の娘エリザベス・テーラーと出会い、彼女と相思相愛になるのだが、リズが彼のどこに魅かれたのかが伝わらなかった。
邪魔になったシェリーを殺そうとして、湖でボートに誘う。ボートの上で、シェリーが語りかける「田舎に行って、貧しくても質素な生活をしよう。それでも人は幸せになれる」という言葉が、かえって彼に逃げ出したかった生活を思い起こさせてしまう。
しかし、殺すことはできず、引き返そうとするのだが、バランスを崩したシェリーは湖に転落して死んでしまう。
状況証拠は、すべて彼の有罪を指し示している。殺人罪で告訴され裁判が始まるが、法律家の悲しい性でここからは面白かった。
原作は、セオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」、新潮文庫で上下2冊1000頁をこす長編である。
テーマはもちろん20世紀初頭のアメリカを覆っていた(今はどうか・・)立身出世主義の悲劇であるが、全編を貫いているのは、宗教ないし(“拳銃無宿”のクェカー教徒ゲイル・ラッセルに言わせれば)信仰である。
モンゴメリー・クリフトの育った家は、路上で布教活動を行う貧しい一家である。とくに母は強い信仰心をもっていたが、彼は路上でのそのような行動を恥じ、そこから抜け出したいと思い続けていた。そして、抜け出して都会へ出た。
映画では、わずかにシェリー・ウィンタースとデイト中に、同じような一家に出くわしたモンゴメリー・クリフトが顔をしかめるシーン、故郷へ電話した際に、電話口に出た母親の背後に、そのようなグループの会合が写されているくらいしか出てこない。
そして、最後に死刑執行を待つ息子のもとを訪れる母親がもう一度登場する。その時の母親の表情は、ゆるぎない信仰心を表現しているようでもあり、自分の過ちを覚っているようにも見える。この母親役の女優は原作のイメージどおりだった。
ちなみに、原作のラスト・シーンでは、彼女の信仰は揺らいでいるように読める。
しかし、映画は原作の柱の一つであろう、堅い(堅すぎる)信仰心のもたらす悲劇という側面は、ほぼすっぽり落としてしまっている。
“エデンの東”も同様だった。スタインベックの原作では、ジェームス・ディーンの父親アダム・トラスクの強い聖書の教えへの帰依が柱になっている。
そのゆえに妻は家を去って娼窟の主となり、母親似の次男キャルも反発する。そして、原作は、死の床にある父親が息子に向かっていう台詞、「ティムシェル」で終わっている。
「ティムシェル」という聖書の言葉は、古代ヘブライ語で「人は道を選ぶことができる」という意味である。これがエホバを離れてエデンの東に向かった人間に与えられた宿命でもあり、可能性でもある、というのがスタインベックのメッセージだった。
しかし、映画では、原作の宗教的側面をそぎ落としてしまったために、死の床にある父親は息子を許し、意地悪な看護婦をやめさせてくれと息子に依頼するなどという、happy ending になってしまっていた。
何年(何十年?)か前に、NHKのテレビで“エデンの東”のテレビ版が5、6回もので放映されたことがあった。
ティモシー・ボトムスが誰かが主役をやっていたが、そちらはかなり原作に忠実だった。ラスト・シーンもちゃんと「ティムシェル」だった。
--と言いたいところだが、実は「ティムショール」と発音していた。ヘブライ語の発音に忠実なのかもしれないが、早川書房版の原作のラストに感動した者としては少しがっかりした。
いずれにしても、映画と原作との関係は難しい。
* 写真は、キープ(KEEP)版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[黒17] 陽のあたる場所”(1951年)の1シーン。シェリー・ウィンタース!