豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

書くために読む!

2009年06月06日 | 本と雑誌
 
 若桜木虔『プロ作家養成塾』は目ざす新人賞の過去の受賞作を読めといい、スティーブン・キング『小説作法』も、よく読み、よく書くことが重要だといい、下手な小説からも学ぶことが多いという。

 既成の作家の作品など読んでも、新人賞は取れないらしい。
 新人賞の第一次審査委員は、表題とペンネームと梗概と、最初の2、3ページしか読んではくれないという。
 ここで審査委員をつかめなくては、原稿はゴミ箱行きらしい。
 サマセット・モームなんかいくらたくさん読んでいても、新人賞の足しにはならなそうである。

 ところが、最近の作品は、表題からペンネームまで何から何まで違和感を禁じえないものが多くて、まったく読んでいない。
 いったい、最近の《直木賞》にはじまって、《江戸川乱歩賞》だの《日本推理作家協会賞》だの《本屋大賞》、果ては(失礼!)《小説推理新人賞》などは、どの程度の内容なのだろうか。 
 そんなことが気になったので、書き始めるのと同時に、ハウ・ツ・本の著者の実作や、最近の新人賞作家の小説を読んでみた。

 著者や出版社、書店には申し訳ないが、全部アマゾンやブック・オフの中古ですませた。

 森村誠一は今回はパスする。
 彼のものは、『高層の死角』、『人間の証明』、『悪魔の飽食』など、以前に何冊か読んだことがある。その後は何も読んでいない。
 『人間の証明』は映画も観たし、そのサントラ盤ももっている。
 ジョー山中の“Ma-ma, do you remember ~ ♪”という曲は、ぼくたちの結婚式でも流した。両親への花束贈呈のときに。

 若桜木虔もパス。
 
 大塚英志『多重人格探偵サイコ』(講談社ノベルス)は失望した。
 大塚英志『物語の体操』(朝日文庫)の「物語の構造」は、文字通り「目から鱗・・・」だったのだが、物語の分析と実作とはやっぱり別物だった。
 大塚自身、「物語の構造」の上に載っている「表層」こそ作者の個性といっていた。「物語の構造」だけでは物語は書けないということを知っただけでも収穫としよう。

 翔田覚『誘拐児』(講談社)は、「第54回江戸川乱歩賞受賞作」と帯にあるので読んだ。
 そのうえ、舞台が昭和36年ということで、昭和30年代を愛するぼくとしては大いに期待した。しかし、昭和33年生まれの筆者には昭和36年を描くことは無理だったようだ。
 作者自身が、作品の中で5歳の被拐取児童に誘拐の記憶がないことを前提としているくらいだから、昭和36年当時3歳だった作者に昭和36年の再現を期待するのは無理だろう。
 いかにも当時を記録した写真集でも見ながら書いたような描写がつづく。音のない、ぼやけた風景が流れるだけであった。
 昭和30年代を背景にした推理小説というと、ぼくは松本清張の『張込み』を思い浮かべる。その映画化の背景になった佐賀の町並みは、今も目に焼きついている。
 松本清張と比べるのは作者に酷だろうか。

 巻末に歴代の“江戸川乱歩賞”受賞者の一覧が載っていた。
 ぼくが熱心に推理小説を読んでいたのは、昭和42年(第13回)海渡英祐『伯林--1888年』から、第15回・森村誠一『高層の死角』、第18回・和久峻三『仮面法廷』、第19回・小峰元『アルキメデスは手を汚さない』、第22回・伴野朗『50万年の死角』あたりまでである。
 こっちが歳をとったからかもしれないし、もう読み返してみる気もしないが、“江戸川乱歩賞”っていうのはこの程度のレベルだったのか。

 * 写真は、大塚英志『物語の体操--みるみる小説が書ける6つのレッスン』(朝日文庫、2003年)の表紙カバー。
 

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小説を書きはじめた!

2009年06月06日 | 本と雑誌
 
 このところの読書で、世の中には、《小説家になるためのハウ・ツ・本》というジャンルがあることを知った。
 それもけっこう広汎な読者層を抱えているらしい。

 読者の大部分は、結局小説なんか書きあげることもないまま終わっているのではないかと思う。
 でも《小説家になるための本》を読んでいる束の間は、「ひょっとしたら自分にも書けるのではないか」、「書いたら新人賞の候補くらいにはなれるのではないか」という夢をもつことができる。

 《小説家になるための本》を書いている著者たちも、そんな夢を与える「物語」として、この手の本を書いているのだろう。
 
 この手の本を5、6冊読んだ先週あたりから、「ハウ・ツ本はもういい、何か書き始めよう」という気持ちになって、実は書きはじめた。

 スティーブン・キング『小説作法』には、「動機は何でも構わないが、ただ、軽い気持で書くことだけは止めてもらいたい」という一文がある(121頁)。
 残念ながらぼくには命がけで書きたいものどころか、眦を決して書きたいものすらない。
 だけど、ぼくには、できるなら生きているうちに書いておきたいこと、読んでほしい人には伝えたいことが伝わる形なら、フィクションでも書いておきたいことがいくつかある。
 そのひとつを書き始めた。

 テーマを決め、アウトラインを決め、プロットを描き、登場人物を確定した。といっても、登場人物は、すべてぼくの周囲の実在の人物である。小説の中の名前も実名にした。そのほうが筆がはかどる。
 
 校條剛『スーパー編集長のシステム小説術』(この本と校條君のことはいずれ書くつもりだ)のアドバイスに従って、3人称単一視点で書くことにしたのだが、主人公はぼく自身なので、たびたび「ぼくは」と書いてしまう。1人称で行ったほうがいいのではないかと思うようになっている。
 想定する読者はただ一人、ヒロインである女性なのだから。 

 スティーブン・キング『小説作法』のように「パラグラフが励起する」などという超常現象は、ぼくにはまったく起こらないので、ひとまず、プロットに従って、すらすらと筆が進む(ワープロで打っているのだが)シーンからどんどん書き進めている。

  若桜木虔『プロ作家養成塾』に従って、叙述は時系列どおりにした。どうしても過去を描かなくてはいけないシーンは、はっきりと過去のことだとわかるアイディアを思いついた。
 3シーン、各400字×15枚、計50枚弱を書いた。

 毎週末と講義のない日に書くことにしているのだが、あいにく今週末は土曜に会議、日曜にも用事があるので、「彼女」との時間はお休みである。

 * 写真は、若桜木虔『プロ作家養成塾』(ベスト新書、2002年)、同『プロ作家になっるための40カ条』(同、2006年)の表紙カバー。

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