豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

加藤周一『ある晴れた日に』

2021年10月10日 | 本と雑誌
 
 加藤周一『ある晴れた日に』(岩波現代文庫、2009年)。発表されたのは1950年。

 “ 軽井沢もの ” つながりで読んだのだが、本当は山本周五郎『小説の効用』(新潮社、1984年)に収められた書評で山本が褒めていたので、以前から読んでみたいと思っていた。
 ちなみに、山本周五郎『小説の効用』は、あの閉店してしまった大泉学園の<ポラン書房>でぼくが買った最後の本となった。

 山本は、『或る晴れた日に(長編)』を、「戦中戦後にかけて、都会の病院に勤める若い医者、高原の疎開地における文化人と土地人。両者を書いたもので、戦後第一の作といってよかろう。作品ずれのしていない新鮮なタッチがなにより「新しい」感覚を表している。佳作。」と評している。

 加藤周一の作品を、山本が「戦後第一の作といってよかろう」と評したのが、ぼくには意外だった。
 山本は、「大衆小説」を蔑視する論者に対して、自身を「娯楽作家」と称して開き直っているが、山本がただの「大衆作家」や「娯楽作家」でないことは彼の作品を一つでも読んでみれば明らかである。彼が大変な読書家であり、実証家でもあったことはこの本からもうかがうことができる。
 誰かが山本のことを「日本のドーデ」と呼んでいたが、プロヴァンスを浦安に置きかえれば確かにドーデかもしれない。かつて一時期彼の作品を愛読したのも、そんなところに魅かれたからだろう。
 その山本周五郎が高く評価した加藤周一の小説とはどんなものなのか、ずっと気になっていた。そして、最近 “ 軽井沢もの ” をいくつか読むことにしたので、この機にと思って読み始めた。

     

 『ある晴れた日に』の舞台は、K町、O村、M町となっている。
 信越線が高崎、横川を過ぎ、妙義山を見ながら碓氷峠をアプト式で登って行くK町、O村、M町といったら、軽井沢、追分、御代田しかありえないが、著者はイニシャルで表記する。
 横川、碓氷峠が実名なのに、どうして軽井沢、追分がK町、O村なのか。最初はその理由が分からなかったが、読みすすめるうちに、軽井沢、追分がイニシャルになっていることが、この小説の要点というか、著者のこれらの地域に対する立ち位置を象徴しているように思えてきた。

 この小説には、K町やO村やそこの住人に対する主人公たちの嫌悪や憎悪の感情が書かれている。
 とくに、K町の疎開娘やO村の農家の娘たちが、この地に滞在する憲兵に対して媚びる姿を描いた個所や(200頁)、終戦直後の食糧難の折に主人公の周辺の人たちに鶏を譲ってくれたO村の農家の人に対して、「どうせ自分たちの中国でやってきたことを想い出して怯えているんだから、そのくらいのことは辛抱してもよかろう」と主人公側の人物に語らせている個所で(228頁)、著者の地元民に対する反感を強く感じた。ここで「そのくらいのこと」というのは、占領してくるアメリカ軍に鶏を供出させられるのではないかという恐れである。
 憲兵というのは、田舎の地主の息子で、東京の大学予科、大学を出て憲兵になり、軽井沢周辺を嗅ぎ回っている男だが、その憲兵に対する憎悪(「犬」「低能」とまで書いている)に比べれば、地元民に対する嫌悪感は抑えられている。それでも、戦時中に軽井沢、追分に滞在した都会人と地元民の間には、おそらく著者をして「K町」「O村」と表記させるような軋轢、わだかまりがあったのだろうと思わせる。御代田にも「M町」にしなければならなかった事情があったのかどうか・・・。

 山本は「疎開地における文化人と土地人。」と体言止めで、その後を濁していて、「文化人」と「土地人」との対立とも共存とも言っていない。疎開先における都会人(ましてや文化人)に対する地元民の感情は実体験がないのでよくは理解できないが、もしぼくが地元民だったら、東京から疎開してきた文化人に好感情を抱くことはないだろう。
 この小説のストーリーは、あくまで同地に滞在する都会人を中心に展開しており、地元民とその生活は背景にとどまっている。しかも、同じ都会からの疎開者でも、「徴用」を逃れて親の別荘に「疎開」している連中と(91頁)、医者である主人公の周辺に集った大学教授、画家、海軍中将の嫁たちとは別世界の人間のように描かれている。

 加藤周一は、戦後も毎夏追分で避暑生活を送ったようだ。
 彼の『高原好日』(ちくま文庫、2009年)には、その追分で出会った人々との交流や思い出が語られるが、登場する人物はすべて「都会人」ないし「文化人」であり、地元追分の人間は「油屋」の主人たった一人だけである。
 加藤にとって、追分はそのような人たちとの交流の場所にすぎなかったのだろうか。

 著者の分身と思われる主人公の恋愛も描かれているが、主人公の恋愛に感情移入することはできなかった。
 防空壕の中で主人公と対峙したときのユキ子の「悲しい」目が想像される。ユキ子との別れについて主人公は饒舌に弁明しているが、それほどに罪悪感を感じていたのだろう。
 防空壕から焼夷弾の雨の中に飛び出していったユキ子が、振り向くこともなく主人公から去って行ったのは正しい選択だったと思う。
 ユキ子は戦後の日本をどのように生きたのだろう。主人公よりもあき子よりも五十嵐教授よりも、生きていたとすればユキ子の戦後が気になった。

 ひたすら、ぼくが生まれた昭和25年に発表され、その年にわが敬愛する山本周五郎もこの小説を読んでいたのだと思いながら読み進め、読み終えた。
 硬質の文章で、「美しい村」ではない追分、軽井沢が描かれたいた。翻訳物までが柔らかくなってしまった最近の小説とは異質な文章は、山本が「新しい」感覚と評したのとは違った意味で新鮮な感じがした。
 昭和25年の山本を追体験しながらの読書だった。

 この小説は、戦争が終わって5年目に発表された。もし、まだ戦争が終結していない昭和20年以前に書かれたものだったら、その緊迫感はもっと強かっただろう。日本が戦争に負けたこと、そろそろ負ける時期であることを知っているので、「青酸カリが欲しい」という登場人物の手紙にも悲壮感は感じられなかった。
 「ある晴れた日」とは、太平洋戦争が始まった昭和16年12月8日と、敗戦の20年8月15日のことである。この日がともに「晴れた日」だったという。若かった加藤にとって、それ以前の中国との間の戦争が「戦争」の始まりではなかったことも印象的である。
 あの年の東京は寒い夏だったけれど、8月15日だけは「暑い日」だったと、亡母がよく言っていた。軽井沢の昭和20年8月15日は暑さではなく「晴れた日」として記憶に残る気候だったようだ。

 2021年10月10日 記 


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