豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』

2021年10月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 小川和佑『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』(読売新聞社、1978年)を読んだ。

 著者の「あとがき」によれば、「軽井沢という特異な風土を枠組みに、その(軽井沢の?)文学と文人を書こうとした」のであって、「文学散歩」と副題がついているが、「文学散歩・・・といった案内書としては書こうと思わなかった」という。
 ぼくにとっては「失われた時を求める」nostalgic journey の良い道案内になった。
 著者は「軽井沢にまだ昔日の自然とそこに生きた文人たちの面影の残っているうちにこれを書いておきたかった」と書いているが、この本が書かれた1978年(昭和53年)の夏はぎりぎりのところだったかも知れない。

 著者は、主軸を置いたのは、有島武郎、芥川龍之介、室生犀星、川端康成、堀辰雄、中村真一郎だというが、ぼくには、有島の心中(大正12年)を起点にして、犀星の周辺に集った芥川、堀、立原道造、津村信夫、川端らの軽井沢における女性との出会い、恋と別れの物語として読めた。犀星だけは、娘朝子がテニスをすることを不愉快に思うなど、妙に家庭的でわきまえた「お父さん」だったが。
 東京下町育ちの芥川、堀は、「万平ホテルに集約される軽井沢を克服して、同化することで、この特異な風土を文学化したが」、犀星は軽井沢を愛しながらも強烈に自己を持続させたと著者は書いている(96頁)。

 有島が軽井沢の別荘で情死した大正12年の事件が、世間の人たちが軽井沢と文士を結びつける端緒となったが、有島が情死したのは資産家だった父親が所有する別荘であり、文士と軽井沢の結びつきとしては例外的だった。
 著者は、大正10年頃から避暑のために軽井沢に滞在するようになった犀星から、軽井沢と文士の結びつきが始まったとみている。犀星は当初はつるや旅館に滞在し、その後は別荘を何度か移転しているが、細部は忘れてしまった。 
 その犀星のもとを学生だった堀が訪ね、犀星を介して堀と芥川の交流が始まる。

 芥川は、大正13年7月に軽井沢を訪れた。
 「古い宿場の風趣にいきなり西洋を継木したこの軽井沢の風景」に、芥川は日本文明そのものの姿を暗示しているように思ったという(47頁)。
 この地で芥川は、資産家の未亡人だった片山広子と出会い、彼女に恋をする(51頁)。この年、芥川は「美しい村」の未定稿を書いており、芥川の死後に、堀は師の作品名を冠した小説を書いている。
 当時の万平ホテルは室料だけで1日12円だったので文士には手が届かず、彼らは2食ついて1日7円だったつるや旅館に滞在し、万平ホテルには散歩で立ち寄ってお茶だけを飲んだという。犬嫌いだった芥川は(!)、西洋人が連れ歩く犬が多いことに辟易したという(48頁)。
 芥川は、大正14年には軽井沢ホテルに滞在した。
 軽井沢ホテルは西洋式ホテルとしては安価なホテルだった。本通り(旧軽銀座)から水車の道(北裏通り)まで敷地があったようだが、昭和19年に取り壊されてしまい、その跡地には小松ストアが建っているとある。本書が出版された1978年には、まだ小松ストアが残っていたのだ(62~3頁)。
 
 同じ夏、萩原朔太郎が美人の妹幸子(既婚である)を伴って軽井沢の犀星を訪れた。彼女を気に入った芥川は、堀を伴って幸子とドライブに出かけたりする。初対面の芥川が幸子と親しげに交際することに犀星は嫉妬した(66頁)。
 同じ夏、芥川は片山広子とも追分にドライブに出かける。この時も堀が同乗している。雨上がりの追分に虹が出たが、虹は西洋では不吉の前兆だという。芥川は昭和2年に自殺する。
 芥川の死から15年後に書かれた、堀の「菜穂子」はこの時の芥川と広子がモデルだという(74頁)。
      
 ※ 上の写真は、本書『美しい村を求めて』にかかっていたブック・カバー。旧道の軽井沢物産館で買ったものだと思う。白樺も最近はあまり見かけなくなってしまった。

 犀星の「信濃」という作品には、立原道造、堀、津村信夫たちが登場する(書かれたのは、立原が夭折した翌年の昭和15年である)。
 堀は、万平ホテルのテラスで犀星にお時宜をして通り過ぎる少女たちを見て、自分もそのような少女を恋人にするという「夢を実現させるためには、私も早く有名な詩人になるより他はない」と思ったりする(86頁)。堀は、片山広子の娘総子に恋をし、その思いを「聖家族」に描くが、母広子は、堀を娘の結婚相手(候補)とは見ていなかった(90頁)。
 昭和8年、「美しい村」を執筆した堀は、追分油屋に滞在していたが、療養に来た矢野綾子と出会い、翌年に婚約する。しかし、綾子は翌10年に亡くなってしまう。「風立ちぬ」はその翌年に発表されている(99頁、111頁)。

 立原は昭和9年に、追分で、本陣永楽屋の孫娘、関鮎子と出会い、最初の14行詩に彼女への思いをうたう(102頁、144頁)。松竹歌劇団の北麗子との出会いと別れもあった(~148頁)。
 恋多き人たちである。
 立原の散歩道は、追分油屋から1000メートル林道を歩き、泉洞寺の墓地裏に至る落葉松の林の中のコースだったという(149頁~)。
 昭和12年に油屋は火災によって焼失してしまうが、この時、立原は同旅館に滞在中で、地元の消防団員に辛うじて救出された。堀は原稿を送るために軽井沢郵便局に出かけていて難を免れた(173頁)。

 東京の中産階級ないし上流階級の出である丸岡明、津村信夫の軽井沢体験は、堀らとは違っていた。親が別荘を持っていたり、家族で万平ホテルに滞在したのが最初の軽井沢だった(114頁~)。堀や川端らと交流のあった中里恒子もこの階級に属する一人で、昭和13年に芥川賞を受賞した彼女の初期の作品の舞台も軽井沢らしい(162頁)。
 彼らのなかでぼくの心に残ったのは、津村の結婚である。
 昭和10年、津村は、千ヶ滝の観翠楼で卒業論文を執筆中に、同旅館のお手伝いだった小山昌子に魅かれる。家柄の違いを慮った恩師は、ひとまず昌子を自分の養女としたうえで、翌年、犀星夫妻の媒酌で東京会館で結婚式を挙げた(157頁)。しかし昭和19年に津村は難病のため亡くなってしまう。
 ぼくは、小津の「父ありき」に出てくる女中役の文谷千代子のような女性を想像した。結婚に際して家格をそろえるための仮親養子という慣行があったことは家族法で学んだが、その一事例を見い出した。

 川端康成も軽井沢文人の1人だったと知って意外の感を受けた。幾夏かを過ごした軽井沢での(西洋)体験が彼の後半期の伝統との関わり合いをいっそう強めることなったと著者はいう(166頁)。
 昭和11年に旅行の途中で軽井沢を訪れた川端は、つるや旅館に宿を求めたが、その風体から番頭が断ってしまう。藤屋では彼を知っていた主人から手厚い接待を受けたため、後に桜沢に別荘を構えるまで、彼は藤屋に好意を寄せ続けたという(165頁)。
 川端には、軽井沢体験を活写した「高原」という短編集があるという。川端は、その主人公に、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」と語らせている。ショート・パンツに白いソックスを素足に履いて自転車に乗る女性やフランス人の少女も登場する(167~8頁)。川端らしい。
 中年の男が軽井沢で「青春」を感じたという「感じ」は、ぼくにも分かる気がした。
 ちなみに、この本には少女の肢体やショートパンツへの言及が何か所か見られる(123、145頁、そして167頁)。
        
 ※ 上の写真には旧軽通りを闊歩するショート・パンツ姿の若い女性の後ろ姿が映っている。左側の写真には軽井沢ホテル跡地に建ったという小松ストアの看板が映っている(『軽井沢 その周辺 1964年版』三笠書房より)。
 
 中村真一郎は著者の(明治大学の)恩師らしい。
 中村の軽井沢でのエピソードは、旧軽銀座の<カフェ水野>のオープン・テラスに座る彼から始まる。その昔、ぼくも<水野>に所在なさ気に座る中村を見かけたことがあった。
 彼は、ぼくが生まれた豪徳寺に住んでいたことがあったらしい(184頁。「渋谷の」豪徳寺とあるが世田谷だろう)。戦時中は岩村田に疎開していたというが、ぼくは高校時代の夏休みに岩村田の学生村で過ごしたことがある。わずかな接点(?)である。

 本書を読むことで、ありし日の軽井沢をタイムマシンで旅行することができた。著者が嫌った「文学散歩」以上の旅だった。
 この本で紹介された堀、川端、中里らの本も読んでみたくなった。
 つぎに軽井沢を散歩するときは、彼らの恋と別れの遺跡を感じながら歩いてみよう。

 2021年10月4日 記


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