豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『橋本福夫著作集Ⅰ』(早川書房)

2021年10月30日 | 本と雑誌
 
 『橋本福夫著作集Ⅰーー創作・エッセイ・日記』(早川書房、1989年)を図書館から借りてきて、読んだ。

 昭和28年(1953年)に、追分の青年たちを中心に湧きあがった浅間山麓米軍演習場計画反対運動へのかかわりや、堀辰雄との交流を橋本の側から知ることができないかと思っての読書であった。
 結論から言うと、演習場反対運動への橋本のかかわりは、本書ではまったく触れられていなかった。日記やエッセイに登場しないだけでなく、編者(大橋健三郎、井上謙治)が作成した年譜の「昭和28年」の項にも一切記載はなかった。
 橋本の日記は、1950年代から60年代は空白になっているというから、演習場反対運動だけが触れられていないわけではなさそうである。反対運動をになった地元の青年たちから求められて、助言や知人の紹介はしたが、積極的にかかわったことはなかったのだろうか。

     

 堀とのかかわりは、予想通りエッセイや日記にの中にたくさん出てきた。
 口絵の写真にも、雪の追分の分去れで撮った二人の写真が載っている。1940年頃の写真とある。今でも追分ではこんなに雪が降るのだろうか(上の写真)。
 橋本は昭和18年6月に追分の分去れ近くに茅葺きの古家を買って、追分での生活を始めた。その家には電気が通っていなかったためランプ生活を強いられたのだが、物資不足の折からランプの油を堀夫人から分けてもらったこともあった(308頁)。

 翻訳で生計を立てていた橋本がチェスタトンの「木曜日だった男」を訳出したところ、堀から読みたいという連絡があったので本を恵贈した。しかし、当初予定していた訳者が自分には訳せないと下りてしまったための代役だったこともあり、チェスタトンを十分に理解しないままの翻訳だった。そのため橋本の翻訳に堀は納得しなかったようで、堀の死後に橋本が堀の書庫に入ったところ、チェスタトンの著書が並んだ棚に、橋本の訳した「木曜日だった男」は置かれていなかったという(196頁)。
 しかしその後も橋本はチェスタトンの専門家と誤解されて、江戸川乱歩が編集する推理全集のチェスタトンの巻の編集を乱歩から直々に依頼されることになる。橋本が専修大学の教員だった時代に(年譜によれば1954年から1960年まで)、専大近くの古い喫茶店で乱歩と面談したエピソードが語られている(197頁)。

 他方、堀の著作からは知ることができなかった往時の追分の物語もたくさん出てきた。
 神戸以来の旧友だった山室静に請われて小諸の高原学舎(浅間国民高等学校)の設立にかかわり1945年)、高原学舎の閉鎖後には追分で開講された「高原塾」で無償で講師を務めたこと(1947年)、堀辰雄、片山敏彦らと季刊誌「高原」を発刊したこと、しかし堀が推薦した中村真一郎、福永武彦の起用を片山、山室が嫌ったこと(320頁)、賀川豊彦の影響を受けて1945年に追分に消費協同組合を設立し、さらに軽井沢購買組合を設立し、沓掛、旧軽井沢テニスコート脇にも販売所を設けたが採算がとれず、結局橋本は追分の自宅を売却して債務の返済に充て、東京に引き上げたという(1947~50年)(313~8頁)。ヤギの乳でチーズを作って販売を試みたが、コストがかかりすぎて売れなかったというエピソードも語られるが、橋本という人の行動力に驚かされる。
 追分の購買所が「すみや」の軒先にあったと荒井さんの本には書いてあったが、橋本の本には「すみや」のことは出てこなかった。「すみや」の主人らしき土屋さんは登場したが。

 演習場反対運動については触れられていなかったが、戦後まもなくの頃に、追分に占領軍向けの慰安所を設置するという町長の計画に反対して断念させたこと(319頁)、借宿の人たちが追分の人は「ずくなし」だといって嫌ったこと(318頁)、農地解放に伴って(かつては地主が務めていた)追分区長(今日でいう自治会長)の役を押しつけられたこと、しかし解放された土地の多くは別荘地化してしまったこと(311頁)など。
 冬の追分の寒さは厳しくて、万年筆のインクが凍って破裂したこともあったという(251頁)。

 今回の読書で一番気になったのは、1981年8月21日の日記だった。
 この日、橋本は堀さん宅にもらい物の羊羹を届けに行ったが留守だったので、追分会の用意した飲み場に出かける。「意外に感じのいい場所になっていて、郷ちゃんが作ったものだ」と聞かされる(285頁)。さらに、高原塾の教え子のところにも(油屋の小川)貢君と並んで「水沢君」が出てくる(319頁)。
 この「郷ちゃん」とは、ひょっとして、荒井輝允『軽井沢を青年が守った』に出てくる「水沢郷一」さんではないだろうか。

 橋本福夫の名前は、ぼくのなかでは、「サリンジャー」と「荒地」出版社とともにあった。
 橋本は、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」の日本で最初の訳者であるが、版元はダヴィッド社だし(1952年11月刊、題名は「危険な年齢」)、橋本が本邦初訳者であることはずっと後になって知ったことである。荒地出版社から出た「サリンジャー選集」4巻本の訳者に橋本は入っていないようだし、同選集には「ライ麦・・・」は入っていない。
 荒地出版社が出した何かの本の巻末に、あのサリンジャーの顔写真つきの「サリンジャー選集」の表紙か箱があしらわれた広告が載っていた記憶はあるのだが、あの選集と橋本がなぜ結びついたのかは今となっては思い出せない。

 しかし、今回橋本の著作を読むことによって、むかしの追分にかかっていた霧の一部を晴らすことができただけでなく、橋本福夫という人物についてのぼくの「?」も溶けた。
 推理小説をハヤカワ・ミステリでたくさん訳したり、日本で最初に「ライ麦畑でつかまえて」を訳したりしながら、同時に「トロツキー」3部作も訳した橋本という人の生い立ちや生き方を知ることができた。橋本の同志社の卒論はドライザー「アメリカの悲劇」論だったという。
 そして、青山学院大学(第2文学部)に移籍する際に(1960年)、かつて高原塾で夜間に公民館だったか西部小学校だったかに集まった地元青年たちに講義した思い出から、夜間部の講義に意義を見い出したこと(ぼくたちの学生時代には青学にも夜間部があったのだ!)、夜間部の教師としての矜持を語ったところには、20年間夜間部の講義を担当したぼくも強い共感を覚えた(203頁)。
 橋本の猫好きはぼくには無理だが、追分で越冬生活を送るには犬か猫が必要なのだろうか。

 2021年10月30日 記 


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