軽井沢町編『軽井沢文学散歩』(軽井沢町、改訂新版(第6版)、1975年)を読んだ。
軽井沢を旧軽井沢方面、中軽井沢方面、追分方面、南軽井沢方面に分けて、各地域の地理、歴史を概観した後に、その地にゆかりの文学者や、その地域を描いた小説や短歌、その地域に存在する文学碑や由来を紹介する。巻末に「軽井沢のあゆみ」という略史が付録についている。
1953年(昭和28年)の項には、ちゃんと「浅間山、軽井沢周辺米軍演習地設置の勧告に対して反対運動を起してその貫徹をみる」と記載されている。エピソード的に挿入された軽井沢の歴史も役に立つ。
「旧軽井沢方面」は、正岡子規が、明治20年に鉄道馬車で碓氷嶺を越えて軽井沢にやってきたことから始まる(「かけはしの記」)。次は菊池寛が大正13年に発表した小説のなかの軽井沢駅近辺の描写に移る。当時は、確かに離れ山のふもとの大隈重信の別荘が見えたようだ。
さらに、大正時代の芥川龍之介、萩原朔太郎、有島武郎、昭和に入ってからの堀辰雄、川端康成らの小説や随筆に現われた旧軽井沢の紹介がつづく。
しかし、碓氷峠が日本の文学に最初に登場したのは、実は日本書紀のほうがはるかに早かった。大和武尊が碓日坂(碓氷峠)に至って弟橘姫を懐かしんで詠んだ「吾嬬はや・・・」という句に因んで、「東国」を「あずま」と呼ぶようになったという。
万葉集にも碓氷峠(万葉集では「宇須比」と表記)を詠んだ防人の句が2首ある。下野から筑紫にむかう防人が妻への思いを詠んだ歌である。当時の防人は碓氷峠を経由して筑紫に向かっていたことに驚く。
松尾芭蕉の句碑と室生犀星の句碑が旧軽井沢の旧道(旧中山道)沿いにあることは見て知っていた。
「中軽井沢方面」は長倉の歴史から始まる。長倉は、延喜時代(いつ頃?)には、東端は湯川、西端は古宿、南端は馬越という広大な官牧地(「長倉の牧」)だった。そのためこの辺には「馬」のついた地名が多いらしい。富が丘から古宿にむかっては当時の土堤跡が残っていると書いてあるが、1975年に出版された本の記述なので、2021年の現在でも残っているかどうかは分からない。
湯川沿いの長倉神社の境内には、わが長谷川伸(といってもぼくが読んだのは『印度洋の常陸丸』と『日本俘虜誌』(ともに中公文庫)だけだが)の「沓掛時次郎」碑があるそうだ。沓掛駅前は昭和26年に大火があり、宿場町の面影はその時に消滅してしまったという。
「野鳥の森」は星野温泉の所有地だとばかり思っていたが、実際は国有林で、昭和47年に環境庁と林野庁が開設した国営のものだと知った。遠慮がちに歩いて損をした。
星野の別荘地の一角(塩壺温泉に近かったように記憶するが)に弘田龍太郎の歌碑がある。その近くに「受験観音」だったか「合格地蔵」だったかが建っていて、叔父に連れて行ってもらったことがあった。ぼくに関しては、ご利益はなかった。
北原白秋の「落葉松」(からまつ)と若山牧水も中軽井沢(千ヶ滝)で紹介されている。牧水は中学の国語教科書に載っていた「信濃路はいつ春にならむ・・・」、「湖の氷はとけてなお寒し・・・」という歌以来好きな歌人だが、「秋晴れのふもとをしろき雲ゆけり 風の浅間の寂しくあるかな」など浅間山を詠んだ歌が5首載っている。軽井沢で読んだのかどうかは分からない。
上皇ご夫妻が軽井沢で出会ったことは有名だが、上皇(当時は皇太子)は昭和28年にエリザベス女王の戴冠式から帰国後に軽井沢で静養され、翌年の歌会始で「旅路より帰りて宿る軽井沢 色づく林は母国の香にみつ」という歌を詠まれたという。当時は千ヶ滝にあったプリンス・ホテルで毎夏を過ごされた。
大日向村の開拓の歴史も語られている。かれらは南佐久郡大日向村から満州にわたり、敗戦後の昭和20年に帰国、翌年からこの地(北佐久郡!)に移住して開墾を開始した。昭和22年に昭和天皇が巡幸した折の記念碑には散歩で訪れたことがある。
「追分方面」は、堀辰雄と立原道造、それに芭蕉が中心(というより、ほとんど)。「ふきとばす 石も浅間の 野分かな」という芭蕉の句が刻まれた句碑があるそうだ。
その他、中村真一郎、福永武彦、加藤周一ら追分ゆかりの文人は『軽井沢を青年が守った』の方が詳しい。彼らは1975年頃はまだ現役だった。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」の中村草田男さんも、千ヶ滝中区の叔父の家のご近所さんだったが、登場しないのは同じ理由からだろう。
「南軽井沢」には、文学散歩としてはあまり見るべきものはない。
茂沢遺跡にのこる環状墓地群(ストーンサークル)はシベリアに由来する遺跡の最南端と誇っているが、野尻湖のナウマン象に比べると弱いし、そもそも茂沢は「南軽井沢」だろうか。
軽井沢はイタリア、スイスの観光地より「田舎くさいが、樹木が茂り、土を踏む散歩道も多く・・・」有難いという石坂洋次郎の文章が引用されているが(41頁)、最近では土の散歩道はどんどん舗装されてしまった。
2021年10月2日 記