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「立原道造」という詩人でもあり建築家のことを知っている人も少なくなって来ていると思います。23歳で他界、建築物は現存しておらずいく編かの詩集のみが残されています。「立原道造」を語るときには書かれる人の立場によって、「詩人 立原道造」を追求する人「建築家「立原道造」を追う人と分かれることがあります。「立原道造 風景の建築」は作者の修士論文を上梓したものです。数ある「立原道造」について書かれた本の中でも詩人、建築家両面から考察された本だと思います。
私は高校時代「堀辰雄」から「立原道造」に辿り着きました。今から40年以上も前のことです。「立原道造」が読んだと書かれている本も読み漁りました。ドイツの作家「シュトルム」などまで手を伸ばしました。挙句に息子を産んで数ヶ月後、「立原道造」がいく夏かを過ごしたという「信州追分」に赤ん坊の息子を母に託して日帰りで出かけたこともありました。それなのに手元には1冊の「立原道造」の本も残っていません。23歳の詩人の言葉が私が歳を重ねるうちに噛み合わなくなったからだと思います。
「立原道造」の詩篇一つすら覚えていないのに、「ヒアシンスハウス」と呼ばれる小屋の設計図だけは目を瞑ると浮かびます。「立原道造」は大学卒業後設計事務所に就職するも2年後には病気から休職する羽目になりました。大学時代の習作としての設計図が主な「建築家」としての遺品です。「ヒアシンスハウス」は「立原道造」が週末を過ごす家として考案したものです。
40数年ぶりに「立原道造」に再び出会いました。「立原道造 風景の建築」は詩人という目を通しての建築物への取り組みを知ることが出来ました。改めて昭和20年代に描かれた「ヒアシンスハウス」の設計図に見惚れます。私同様に「立原道造」と「ヒアシンスハウス」を同じ線状に思い浮かべる人も多いのでしょう。結局、建物としては作られないままの「ヒアシンスハウス」です。死に向かいながら「立原道造」は生きる証としての「ヒアシンスハウス」ではなく彼の死後家が閉じらた後の「ヒアシンスハウス」の暗い家内を想像する詩が残っています。23歳という若さでの死と向き合う者の心の内を思います。
「立原道造」が健在していたらとどんな詩を読んだでしょうか?どんな建造物を手がけたのでしょうか?「立原道造」の持つ小宇宙的な感覚が蘇って来ました。詩人が作る建物、一人ぼんやりと想像します。
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