チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

バナナの木 香港

2015年02月18日 | 香港

曇り、17度、82%

 香港かろうじて四季を感じますが、それも微々たるもの、秋をよく感じないまま短い冬に入ります。今日は旧暦の大晦日、つまり、明日は春節。旧暦のお正月です。この旧暦のお正月が一番寒くなるはずの香港ですが、今年は暖かです。今、私は半袖。今日の夕方までは、町中年末の大賑わいを見せます。もちろん、夜を通してのお祝いは日本と変わりありません。

 12月の寒さから一変、1月も気温が高めで過ごしました。山を見ても、一番うら寂しい時期にも関わらず緑があちこちに残っています。香港では、バナナの木がひょこひょこと人が居住する辺には生えています。流石に町中にはありませんが、マンションとマンションの隙間、マンションの裏などに2、3本かたまってその姿が見られます。やはり沖縄より南にある香港です。バナナといえばプランテーションの背の高い木を思い浮かべますが、種類の違いもあるのか、そこら辺に生えているバナナの木はさほど高いものではありません。

 見出し写真のバナナの木は、我が家から一番近くのバナナの木です。香港動物園の上の斜面に生えてます。大きな平行葉脈のバナナの葉は、風に吹かれると、切れ切れになります。大きな台風がきても、木質の植物とは違い、幹も縦長の繊維質のおかげで、バッタリと根こそぎ倒れているのを見たことがありません。おそらく、強風のときはその風に合わせて自在に幹を横倒ししているのではないでしょうか。

 もちろんバナナを付けます。 黄色い病葉の影に少し大きくなり始めたバナナがなっています。こんな斜面ですから、人間さまは手が出ません。空から舞い降りて来る鳥たちだけが、ご馳走に預かります。このバナナは、普通のフィリッピンのバナナより大きめ、筋がたくさん付いています。ところが、その甘さは、なんともいえず実質は締まっています。市場での売り値は輸入のバナナより高めです。皇帝バナナ、モンキーバナナは調理にもむきますが、地元のバナナはそのまま食べるのがお勧めです。2月のこの時期に実を付けているのは、珍しい、やはり気温が高いからでしょう。

 先日、沖縄の糸芭蕉をテレビで見ました。香港のバナナの木と高さは同じくらいです。芭蕉から糸を紡ぎ出す様子を見ていると、香港のバナナの木でも出来そうに思います。糸芭蕉のように、糸に紡がれるバナナの木。葉っぱは殺菌作用があるそうで、もっと南のタイやシンガポールでは、このバナナの葉っぱに食べ物を包んで料理を供します。我が家のタイ人のお手伝いさんは、バナナの葉に包んで冷蔵庫に食べ物を保管するのだと教えてくれました。実の先に付く赤いこぶし大の花は、タイではサラダに、ここ香港ヤフィリッピンではスープにして食べます。そういえば炒めものにしても美味しいのだとか。

 香港島セントラルのアイスハウスストリートから山向きに見上げると、このバナナの木の群生が見られます。私はこの亜熱帯的な風景が大好きです。

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鳩時計

2015年02月17日 | 日々のこと

ガス、17度、96%

 おかげさまで、孫が一歳を迎えました。初めてのお誕生日です。お誕生日はこれからもやってきますが、初めてのお誕生日は格別です。この一年間、お母さんとお父さん、周りの人たちに優しい目で見守られ育まれてきました。出産予定日は、14日、3日間お母さんはよくがんばりました。かねてから、この日に帰国を決めていた私、香港から飛行機に乗るまでは、まだ出産の知らせをもらえません。ところが、成田に着いて、携帯を開けるや息子、主人からのメッセージです。東京に雪の積もった翌日の事でした。

 産院で初めて会った孫は小さくて、今にも壊れそう。窓の外の雪景色とは裏腹に。孫を囲むその父母、祖父母の周りは、ほんわかと暖かな空気が流れていました。この一年、私が孫にあったのはこの日を含めてほんの3回。会う度に赤ん坊ではなく、子供へと成長して行きます。

 孫の初の誕生日に鳩時計を送ろうと決めたのは、去年です。ポッポ、ポッポと鳴く鳩時計。時計は、時を刻みます。そして、その時間の流れを孫と共にしてくれます。そんな思いで鳩時計を探しました。

 鳩時計を売っているところは目を付けていたのですが、主人が日本の物がいいなどと言います。私がいいなあと思うのは、ドイツ製かイタリア製の鳩時計でした。主人は忙しいので、私に任せると言ってくれます。しめしめとドイツ製の昔から見る山小屋の鳩時計を買いました。

 お店に行くと、先日見たときよりも鳩時計が増えています。お姉さんに頼んで、全部の鳩を鳴かせてもらいます。いろいろな鳴き声があります。家にこもる一番響きの良い物を選びました。しかも、川のせせらぎの音がバックに聞こえます。きれいな鳥の声です。オーソドックスなこの山小屋の鳩時計は、必ず犬が家の前に居ます。アルプスの救助犬セントバーナードです。

 この時計を買って、しばらくして、そごうデパートに行く機会がありました。たまたま、クロックの売り場の前を通りました。見ると鳩時計も壁にかかっています。かなり大きな鳩時計です。日本のリズムが作っている鳩時計でした。大きいのはいいのですが、がっかりする程デザインが大雑把。しかも、木目調の化学素材で作られています。折角いいムーブメントを作ってもこれではねえ、と残念い思います。

 さて、この鳩時計、先日主人がハンドキャリーで息子たちの元に運びました。ところが動かないと言って来ます。からくり時計です。どこか調子が思わしくないのでしょう。デパートの時計売り場にでも持って行けば、それこそ日本です、すぐに直ると思います。一刻も早く、鳩が出て来る様子を孫に見せてやりたい気持ちで一杯です。

 また、この一年、元気に育ってくれますように。

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あけぼのの最中

2015年02月16日 | 日々のこと

ガス、18度、97%

 まだ、日本にいた頃、我が家が住んでいたのは東京の南西の端の私鉄沿線の街でした。息子が幼稚園に入ったのも小学校に上がったのもこの街です。低学年までいました。その街に息子夫婦が部屋を見つけて移り住んだのは、家族が増える少し前の事です。この街を離れてからも、戸籍の用事で数年に一度はやって来ます。そうはいっても用事のついで、街をゆっくり見る時間もありません。駅舎を出ると、放射線状に道が拡がった住宅街です。駅の反対側には、古くからの小さな商店が並んでいました。関東らしい佃煮を売る店、時折のれんをくぐったおそば屋さん。縄のれんの焼き鳥屋さんもありました。

 息子たちが住むようになって、2度程ゆっくりとこの街を歩きました。雰囲気のあった駅舎は取り壊され、駅のこちらと向こうが行き来し易くなっています。息子が初めてお使いに行ったサンジェルマンのパン屋はなくなり、エリックカイザーのパン屋がオープンしています。流行のスターバックスまであります。そうそう、日本のエリックカイザーは、サンジェルマンがやっているのだと先日知りました。

 この街に住んでいた頃の我が家は、ほんとにお金もなくて、保健所に追われていた犬を家に入れ、猫を拾って来ては、小さな家族が肩を寄せあって生活していた頃です。主人も私もまだ、20代、何が自分たちの前に開けるのかも想像付かなかった時代でした。

 先日、日本に出張で帰った主人は、駅近くで息子家族と食事をとりました。香港に比べると寒い寒い東京です。食事の後、商店街の緩やかな坂道を孫たちと歩いたのだそうです。一人香港にいる私を思って、アミと海老の佃煮を買って来てくれました。緩やかな坂道の行き止まりは、「六間道路」という面白い名前の道に突き当たります。この道沿いには、コロッケを揚げているお肉屋さん、数年前に閉店したサンリオのイチゴの家なんかがありました。

 主人が戻って来た翌日、テーブルの上にあけぼのと書かれた箱がのっています。 良く見もせずに、空港の銀座あけぼので何やらお土産を買ったのだとばかり思っていました。あの箱の中は何?と聞くと、最中だよ、懐かしいだろうと思って。とお返事。そうなんです、六間道路には、和菓子屋さんが一軒ありました。大きなガラス戸の和菓子屋さんです。上生菓子からどら焼きまで品よく並べられていました。和菓子好きな母が上京して来るときは、ここの菓子を用意したものです。主人はそんな事も覚えていたのでしょうか。

 蓋をとると、これまたきっちりと最中が詰められています。予約しないと買えない最中、並ばないと買えない最中、色々頂戴します。確かにどの最中もおいしい。けど、街街にある古くからのお菓子屋さんの最中は、しっかりした揺るぎない美味しさがあります。パッカリと2つに割ると、中は粒あん。最中を食べながら、昔の町並みやその頃の私たちの事を思い出していました。

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ザクロ

2015年02月15日 | 日々のこと

曇り、18度、77%

 大きな真っ赤なザクロを主人が買って来たのは、2週間以上前の事でした。両手でボールを作った程の大きいもので、アメリカ産です。ご本人食べる様子もありません。実家の庭にザクロの木がありました。夏も終わり秋になると、ザクロがパッカリと割れて中の実を見せます。結構高い木ですが、母はその実を取ってはテーブルに置いたり、食べていました。私はちっとも好きになれないザクロでした。種ばっかりで、甘くも何ともないザクロ、実家を離れて以来一度も口にした事のないザクロです。

 最近では、赤い実は女性の味方とかいわれ、クコやナツメ、ザクロは女性の体にいいとされています。クコ、ナツメを女性向きのスイートや飲み物にと使って来たのは漢方です。ここ香港でも、産前産後のスープには欠かせない食材として使われています。薬局のずらりと並んだサプリメントには、女性向けのザクロやイチョウ素材が見かけられます。殆どアメリカかオーストラリア産のサプリです。

 さて、我が家のザクロ誰も手を付けません。触ったら、堅いはずの外皮はふにゃっとしています。食べ物は粗末に出来ません。まあ、食べてみるかと半分に。中の実も、庭のザクロより毒々しい程真っ赤です。みっしりと詰まったザクロの実。口に一粒入れると結構甘く感じます。でも、この量です。一粒一粒食べるのはめんどくさい。そこで、レモン絞でギュウギュウとジュースにしてみました。種がありますから、力が入ります。 このくらいの量絞れました。種混じりですので、ちょっとビターです。思い切り一気に飲み上げました。喉がイガイガします。モモさん、見学にやって来ましたが、そそくさと退散。ああこれで、目障りなザクロが片付きました。

 昨日、このブログに不正出血があり、病院で検査してもらった事を書きました。異常なしと結果をもらいました。でも、何か原因があるはずです。

 一昨日、このアメリカ産の大きなザクロを袋に一杯買っている白人女性を見かけました。その時、何かピット来るものがありました。家に帰りザクロの成分を調べてみました。女性ホルモンに関わるエストロンが、全くそのままの状態で含まれているそうです。つまり妊娠や月経に関わる大きな要素です。このザクロのジュースを飲んだのは、不正出血を見る2日前の事でした。

 しばらくPCの前で考え込む私です。素人考えですが、このグラスのザクロのジュースが、もしかしたら私の体のどこかを刺激して、出血を促したのかもしれません。

 ザクロの成分や効用を読んでいると、確かに女性に必要な成分がたくさん含まれています。体にいいのは結構な事ですが、この私、またしても出血などありはしないかと、しっかりご辞退するつもりです。

 自然界には、計り知れない恵みが存在しています。そしてまた、人間の体も、その自然の一部です。ザクロのエストロンが、私の体をチョイチョイと刺激してくれたとしたら、これまた自然かなと思います。

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不正出血

2015年02月14日 | 日々のこと

晴れ、17度、47%

 この2、3ヶ月、主人と私の健康の事を心配していました。健康の心配というのも、風邪一つひかない事の心配です。主人は一番の側にいる人、私の健康状態を一番ご存知の人です。熱ももう3年以上出していません。鼻水、咳もしません。お腹が痛くなることがあっても、悪いものを体から出してしまえばケロリとしています。こういう人はいつか大きな病気が来ると聞きます。その意味で、心配していました。

 10日程前の昼下がり、不正出血を見ました。トイレから出るや、一番近くの病院に予約の電話を入れました。日本の医療体制とは若干違います。街でクリニックの婦人科を尋ねると、マンモグラフィーやエコーを取る度に別の専門のクリニックに出向きます。もちろん、その利便性を考えて、一つのビルにクリニックばかり入っています。大きな病院は病院で、専門の先生が常駐しているとは限りません。予め病院に連絡をして、婦人科の先生の来る日に予約を入れます。緊急時は、すぐにでも専門の先生を呼んでくれます。一番近くの病院は、教会が運営母体です。婦人科が常駐でない事は知っていましたので、専門医の来る中一日置いた日に予約を入れました。

 私年代、60も近くなると、不正出血はややもすれば大きな病気の前兆です。早く見てもらう事に越したことはありません。香港の幾つかの大きな病院は、日本語の通訳がいます。今まで、主人も私の通訳を頼んだ事がないので、有料かどうかは知りませんが、日本人が多い病院ならではのサービスです。考えてみると、通訳がいる病院はみんな香港島にあります。

 特別女医さんを希望したわけではありませんでしたが、女性の先生でした。私の話を聞いただけで、骨盤の検査、エコーの検査と進みます。子宮のエコーは、男性の先生でした。ここでは、何やら同意書にサインを求められます。よく読むと、男性の先生が体を触れる事の同意書です。緊急の場合も必ずこの同意書が必要だと、後で看護婦さんに教えてもらいました。

 結果が出るまで3日程、3年前も乳房に白い影があるといって、再検査を受けました。あの時は、いやはや、随分落ち込んで心配したものです。今回は以前程ではありません。それでも、万が一の為に自分のこれからのことを考えます。3年前には、2つの事を仕上げないとと思いました。仕上げるとは変な言い方ですが。モモさんの最期を看取る事。同い年ですが、主人の最期も側にいてやりたいと思いました。今回もその2つ以外に考えつきません。何かがあれば主人の最期には付き合えないなあと思います。この2つを終えれば、私の大きなお仕事はありません。主人に早く逝ってもらいたいわけではありません、念のため。身の回りの事が出来ない人ですから、息子夫婦に迷惑をかけたくないのです。そうそう、今回深刻にならずにいられたのは2度目のせいもありますが、一人息子がいい人と結婚し、子供の父親になりました。3人で家庭を築いている途上です。この事が、私に気持ちの余裕をくれたのだと思います。

 考えてみればほんとにしたい事なんて、ほんの少し。それ以外は、毎日がホッとできるものであれば充分です。こんな簡単な事を、数年に一回、大きな病気かもと気を揉む間に考えます。突き詰めれば、それだけで満足です。その事を気付かせてもらえるだけでもあり難いと思います。結果は、異常なしでした。

 お腹に手を当てて、空を仰いで父と母に感謝しました。ところが、この話、まだまだ続きます。

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島暮らし

2015年02月13日 | 香港

晴れ、13度、62%

 香港に来て以来、30年近く島暮らしです。香港は中国と陸続きの九龍と新界そして、200あまりの島から成り立っています。200ある島の内で2番目に大きいのが、香港島です。一番大きい島は、空港のあるランタオ島です。

 この香港島、ニューヨークのマンハッタン程ではありませんが、島らしからぬ島、人口密度といい、空に空に向かうビル、島の中央には低いながらも山が走っていますから、ビルは山沿いにも建ち上がりいやが上でも高く感じます。

 島暮らしと聞くと、海に突き出た埠頭で連絡船を待つようなイメージがあります。確かに香港島、たくさんのフェリー乗り場があります。昔は唯一の九龍サイドに渡る手段だったスターフェリー、埋め立てでどんどん狭くなるビクトリア湾を8分程で渡ります。3隻がシャトル運航、待ち時間3分程で船は運航されています。なんとまあ、慌ただしい香港です。このスターフェリーは、観光客も一杯です。島に行く、九龍に渡る、スターフェリーは一番安い交通手段です。車で渡るのの10分の一。庶民の足です。 向かって、スターフェリーの右側は香港島東部、左側が九龍サイド東部にあたります。

 島暮らしをしている事を、すっかり忘れて暮らしています。昨年の年末から1月の半ばまで、島から出たのはほんの2回だけ。何不自由しません。この島の中で何でも買えます。何にも揃います。

 昔は、台風の時、ひしと島に住んでいる事を思い知らされました。スターフェリーは当然止まります。当時は地下鉄も、車のトンネルも全部通行止めでした。台風のシグナルが上がり始めると、島に帰る人、九龍へ帰る人、皆忙しく最後の船や電車に乗りました。台風が荒れ狂っている間は、それこそ孤立してしまいます。あー、島に住んでると実感します。しかも1日経って台風が行きすぎても、スーパーの棚には牛乳も野菜も肉など何一つありません。やっと3日目頃から商品が並びます。台風なんて、長くても1日の辛抱のはずなのに、台風のシグナルが上がり始めると、皆、買い出しに走ります。それでも、今は台風の翌日から商品はスーパーの棚に戻ってきます。スターフェリーは流石に動きませんが、地下鉄は走っています。おかげで、島に住んでいる事を忘れてしまいます。

 私は生きて来た時間のほぼ半分をこの島で過ごしました。車で飛ばして一周しても、2時間程の小さな島です。

 見出し写真は、九龍サイドから見た香港島。真ん中の高いビル、IFCの後ろの山沿いに我が家のビルが小さく見えています。この写真を撮った時、その小さな家の中ではモモさんが一人で寝ていました。

 

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香港パン屋のケーキ

2015年02月12日 | 香港

晴れ、14度、67%

 今でこそ、ピエールエルメだとか、まあフランスのお菓子屋さんのケーキまでが買える香港ですが、以前は、パンヤさんにしかケーキはありませんでした。唯一、ハイエンドなケーキは、ホテルのケーキです。パンだって、今はカイザーのパンが歩いて行って買えるような香港です。この香港、ちょっとお腹が空けば、麺などを小食といって食べます。主食は中国の南ですから、当然お米です。ところが、これまたパンが好きな人たちときています。小さな街のパン屋さんが、街の至る所にありました。夏ともなれば、パン屋の奥では上半身裸のおじさんたちが汗を流してパンを焼いています。そして、これまた甘いものがお好きな香港人、小ぶりなケーキを何かと召し上がります。その代表格は、エッグタルトでしょう。焦げ目が付いたポルトガルスタイルではありません。きれいなプリンのようなタルトです。飲茶にも、少し暖かいエッグタルトが出てきます。

 最近は、香港の人たちも口が肥えて来て、街の小さなパン屋さんは、どんどん消えて行きました。まだやっているパン屋だって、並んでいるパンやケーキが以前とは変わってきました。その中で、もう殆ど見かけなくなったケーキが、見出し写真のロールケーキです。名前?名前なんて付いてません。強いていえば、寄せ集めロールケーキです。

 寄せ集め、ケーキを作ると端を切り落としたりしてケーキのくずが出ます。このいろんなケーキのくずを薄いロールで巻いたのがこのケーキです。つなぎはバタークリーム、いえ、正確には塩入りのマーガリンクリームです。このマーガリンの塩味といろんなケーキのくずと混ざって、なんか笑いが出て来るような美味しさです。急に懐かしくなって、食べたくなります。探しますがなかなか見つかりません。懐かしく思うのは、私ばかりでなく主人もです。やっと、見つけました。おじいさんとおばさん二人でやっている小さなパン屋さん。昔は賑やかだったフェリー乗り場の近くの店です。今はもうフェリーも廃船となりました。

  まだ、このココナッツタルトはあちこちで見られます。エッグタルト程有名ではありませんが、ココナッツのシュレッドがたくさん入ったこのタルトは私の好物です。

 今、香港に住む日本人の方達、こんなケーキなんか食べた事がないかもしれません。寄せ集めロールケーキは、きっと、私の食べ物の記憶にずっと住み続けています。

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サンドライドトマトのパン

2015年02月11日 | パン

曇り、13度、83%

 サンドライドトマト、大好きな食べ物の一つです。真っ赤なトマトをこれまた太陽の下で乾燥させたもの。お日様の恵み一杯のカラカラトマトです。カラカラの状態では、ほんのり甘みが感じられる程度の食べ物ですが、これをオリーブオイルに漬けると、香りはトマトと太陽、その味ときたら濃厚なねっとりしたものに変わります。

 先日、我が家の近くのエリックカイザーの店に行きました。お店の前にモモさんをつなぐ場所がありません。たまたま主人と3人でしたので、私は外でモモさんと待つことに。ガラス張りの大きな店は外から丸見えです。主人が選ぶパンにそれはダメ、とかそれにしてとか外から合図を送ります。主人が選んだパンの一つが、トマトのパン。

 トマトのパンと書かれてたと言いますが、口に含むとサンドライトマトです。大きなサンドライトマトの切れっ端が入っています。ルヴァン種を使った、エリックカイザーのやや重めのパンにたっぷりのサンドライトマト、絶妙な組み合わせです。ところが、ただでさえ重めのパンなのに、どっしりと感じるこのパン、包まれていた紙袋を見ると油染みが付いています。サンドライトマトのオイル漬けはオリーブオイルをたくさん含んでいます。きっと、じんわりとにじみ出たオリーブオイルです。やや重く感じられるので、ならばと自分で焼いてみる事にしました。

  最近では、オリーブの計り売りのコーナーにサンドライトマトも各種並ぶようになりましたが、今回は瓶詰めを使いました。パン生地はお気に入りに配合に、砂糖を減らして作ってみました。

 エリックカイザーのパンは、大きなかまぼこ型でした。私は、得意のまん丸。 200gの粉に対して、サンドライトマト6切れを使いました。大雑把に切っています。生地にはほんの少しのオリーブオイル。見出し写真のように軽く軽くし上がりました。次回はサンドライトマトを10切れまで入れてみようと思います。

 自家製サンドライトマトを作りたいのですが、さすがの香港もイタリア産のトマト、パーキーの種が手に入りません。しかも、湿度の高い香港です。オーブンでベイクして作るドライトマトもあります。小ぶりなチェリートマトを使えば出来そうですね。

 軽い仕上がりのサンドライドトマトの入ったパンは、アンチョビをのっけても、モッツァレラチーズをのっけても美味しそうです。

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薬の引き算

2015年02月10日 | 日々のこと

晴れ、12度、76%

 義父母は、毎日たくさんの薬を飲みます。かかりつけのお医者さんに処方してもらった薬ですが、年々その量が多くなって行きます。持病もあれば、その時々の体調不良もあるでしょう。主人も医者処方の薬の他に、サプリメントと言われるものを数多く飲んでいます。知人の女性は、サプリメントを7種類、一日何10粒も飲んでいると言います。

 私が薬、市販の薬も医者処方の薬も含めてちょっと考えるようになったのは、10年程前の事です。主人の実家に医者処方の風邪薬がたくさん残っていました。義父母のために処方されたものです。義母がよく効くから持って行きなさい、というので家に持ち帰っていました。我が家のも最小限の市販の常備薬はあります。日本から買って帰る、パブロンや正露丸などです。朝起きて、おや?風邪かなと思ったことがありました。いつもなら香港の市販の眠くならないペナトールを予防に飲むのですが、義母からもらった風邪薬が気になります。義母に電話をして眠くなるかどうか尋ねました。眠くならないとおっしゃいます。朝ですし、車で出かける用事もありました。食後に、一袋飲みました。錠剤なら、ネットで調べるのですが、粉末の何が調合されているか分からない薬でした。車で出かけたのはよかったのですが、昼前にクラッと眠くなりました。これはいけないと、運転してすぐに家に帰りました。そのままベットでどの位寝たでしょうか。仕事をしていたときですので、夕方には仕事に出かけましたが、眠気がとれません。翌日もなんだかフラフラしています。風邪どころか、このフラフラと気分の悪さで参ってしまいました。年寄りに処方された薬です。義父母より若い私が、こんなに気持ち悪いのはおかしいと、もう一度、義母に電話で風邪薬の事を訪ねました。よく効くし眠くならないと言います。

 毎日たくさんの薬を飲んでいる人と、薬を殆ど飲まない人では、体の反応も違うはずです。この風邪薬、私には合いません。そこで、もったいないけれど全部捨てました。2年程前までは、市販の総合ビタミン剤とアリナミンを毎日欠かさずに飲んでいました。まだ仕事をしていた頃で、肩こりが気になっていました。PCに向かう時間もかなり長く、朝起きると目が真っ赤です。ですから、目薬も欠かしませんでした。持病もありません。滅多に頭痛もありません。市販の薬は、これだけでした。

 薬は体に入れるものです。体を作るものではありません。毎日続けて来た薬を止める事は、不安が過ります。アリナミンも目薬も日本のものですから、日本に帰った時にしか手に入りません。でも、思い切って、目薬とアリナミンを止めて1年以上がたちます。今はアメリカ製のビタミン剤一粒だけを毎日取っています。止めても、体調に変化はありませんでした。昨年末からチクチクをしている間も、肩こりがひどくなるかと心配しましたが、座りっ放しでも肩腰共に異常が出ませんでした。

 これからは、加齢とともに病気による薬の処方を受ける事も出て来ると思います。その前に、自分の体の力で体を維持できるように調えたいと思います。薬の引き算が出来るのは、今しかないなと思いました。これからは薬の足し算になるばかりの瀬戸際の年齢です。この3月で58歳を迎えます。

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和紙の便箋

2015年02月09日 | ステイショナリー

晴れ、13度、73%

 日本の和紙がユネスコの無形文化財に指定されました。和紙全般ではないようです。指定された3地区の和紙は、全て日本のコウゾを原料にした手透きの和紙を作っている地域です。コウゾ、三つ又、ガンピ、と和紙の原料も輸入されているものがあるそうです。島根の石州紙、美濃の本美濃紙、埼玉の細川紙。これ以外にも日本のあちらの街こちらの街で作られている和紙です。

 和紙との初めての出会いは、土佐紙。高知県の紙です。母の実家は高知県土佐市、年に一、二度里帰りする母は、高地の繁華街で必ず和紙を買い求めて帰ってきます。何分にも筆達者な人でした。そんな母と小学の5年の頃一緒に買い求めたのが、 この和紙綴じに入ったレターセットでした。もちろん中の封筒もハガキも便箋も使ってしまい、別の便箋が入れられています。母が私に和紙の便箋をくれたのは後にも先にもこの一回切りです。母にとって和紙の便箋は自分用でした。

 母のようには筆を持ちませんが、和紙好きは親子同じようです。筆ばかりでなく、万年筆でも使える和紙が普及してきました。香港に来るときは、こうしたレターセットも準備してやってきました。海外からもらう和紙の縦長の封筒はどんな感じでしょうか。洋便箋も好きで数持っていますが、やはり目上の方やかしこまった内容のときは、和紙の縦長封筒がしっくりときます。

 私の和紙好きを知ってか、主人は、行く先々で和紙のレターセットを土産にしてくれます。2年程前でしたか、これでは私が死ぬまでに使い切れない程のレターセットを持っている、とこぼしたことがありました。その後母が逝きました。母が逝った後、それこそ沢山の方に手紙を書く羽目になりました。長くご無沙汰をした方、親戚筋の年上の方、母が逝った後ふた月は、手紙を書くのが私の仕事でした。やっと少なくなったレターセット、見出し写真は、そのほんの一部です。

 私が選ぶものは、普通の経線入りの飾り気のない物ばかりです。ところが主人は、 こんな平安紋の優しい色の便箋、 同じ経線でもあか抜けたものを選んでくれます。平安紋は京都のまつ丸のもの。色付き経線は、美濃紙で出来ています。

 実家の整理をしていて、母の持ち物、高価な服から帽子まで捨てに捨てた私です。ところが、母の持っていた和紙のレターセットは、丸々残しました。母らしい潔いデザインのレター紙など胸躍ります。少し薄手の漉き紙が出てきました。主人が母に中国の漉き紙を土産にしたものです。和紙の巻き紙も何本かあります。これらのレターセット、日本の家の引き出しに大事に仕舞われています。

 ケチな私は、大好きな和紙の便箋や封筒を使わずに取ってあります。日も当たらない、出来るだけ湿度も低くと気を使っているのに、時間が経つとシミが浮いてきます。そこで、最近は、エイッとばかりにお気に入りの便箋を使います。先日、エイッとばかりに手紙を書き終えて、封筒の表書きをと封筒を見ると、郵便番号の四角いますの数が足りません。随分昔のものですね。

 さあ、和紙がシミを付けないうちにせっせと手紙を書きましょう。

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