今朝の散歩で、桜並木(ボクがたびたび紹介している元松竹撮影所・開所記念樹)のある砂押川の川岸がびっちりと苔むしているのに気づいた。その川岸は、護岸工事でできたもので、数メートルの高さでだいぶ先まで続いている、コンクリートの壁なのだが、その壁一面に苔緑が輝いていた。輝いていた、というのは、その川はほぼ真東から真西に向かって流れていて、ちょうど朝日が東北東の方角から差し込んできて、緑の苔をあかあかと(みどりみどりと?)照らしていて、かつ北側の桜の上部の枝の影を苔緑に落としていた。
ぼくはあまりのうつくしさに、デジカメをとりに家に戻り、(いつもは携帯しているのだが、たまたま忘れていたのだ)出直して、そこで写真を撮った。朝日がもう少し上がってしまうと、苔緑の上のひかりと影が逃げてしまうと思い、急いだのだった。
それにしても、何故、今まで気づかなかったなのだろう、と思案した。ひとつは、先週、雨天がつづき一気に苔が繁茂してきたこと、そして、もうひとつは朝日の射し加減が頃合いのときにそこを通りかかったということ、だと自分なりに結論づけてみた。今日、実家に行き、母の園芸のちょっとした手伝いをして帰るときに、そこを又、通ってみたのだが、もう光りもなく、影ばかりで、朝とは全く異なる景色であった。ボクの二番目の仮説がはからずも証明された。
もちろんボクは木々の緑が大好きだが、苔の緑も木々のに負けず劣らず気に入っている。鎌倉のお寺にもよくみかける人工的な苔庭園もいいが、むしろ、なんでもないところに殖えた、自然の苔緑のうつくしさにはっとすることが多い。木とちがい、大地の上だけではなく、石や岩、木の幹等にも生まれ、そして育つ。こんどのように、人工のコンクリートさえ生息場所にしてしまうのだ。その生命力には驚くばかりだが、その緑のうつくしさにも驚いてしまう。
お天道様が傷ついた地球の修復に苔を差し向けているのではないか、と思ってしまう。傷口をみどりで覆い、そしてうつくしく緑に輝かせ、人間どもよ、みたか、とお天道様がぼくらに何かを問かけているのかもしれない。
ぼくはあまりのうつくしさに、デジカメをとりに家に戻り、(いつもは携帯しているのだが、たまたま忘れていたのだ)出直して、そこで写真を撮った。朝日がもう少し上がってしまうと、苔緑の上のひかりと影が逃げてしまうと思い、急いだのだった。
それにしても、何故、今まで気づかなかったなのだろう、と思案した。ひとつは、先週、雨天がつづき一気に苔が繁茂してきたこと、そして、もうひとつは朝日の射し加減が頃合いのときにそこを通りかかったということ、だと自分なりに結論づけてみた。今日、実家に行き、母の園芸のちょっとした手伝いをして帰るときに、そこを又、通ってみたのだが、もう光りもなく、影ばかりで、朝とは全く異なる景色であった。ボクの二番目の仮説がはからずも証明された。
もちろんボクは木々の緑が大好きだが、苔の緑も木々のに負けず劣らず気に入っている。鎌倉のお寺にもよくみかける人工的な苔庭園もいいが、むしろ、なんでもないところに殖えた、自然の苔緑のうつくしさにはっとすることが多い。木とちがい、大地の上だけではなく、石や岩、木の幹等にも生まれ、そして育つ。こんどのように、人工のコンクリートさえ生息場所にしてしまうのだ。その生命力には驚くばかりだが、その緑のうつくしさにも驚いてしまう。
お天道様が傷ついた地球の修復に苔を差し向けているのではないか、と思ってしまう。傷口をみどりで覆い、そしてうつくしく緑に輝かせ、人間どもよ、みたか、とお天道様がぼくらに何かを問かけているのかもしれない。