1854年、日米和親条約が、現横浜開港資料館の場所で締結され、幕府は、鎖国政策を改め、下田と函館を開港し、外国船の出入りを許しました。下田開国の歴史を辿る散歩は楽しいものでした。
紫陽花が咲き乱れる下田公園内の開国記念碑。 ペリーとハリスの言葉が刻まれている。カーター大統領も現職中、訪れた。別のところにカーターの胸像も。そこまでしなくても(笑)。

海岸にはペリー上陸の碑。

ペリーロードにはなまこ壁と伊豆石の古い民家がいくつも。


日米和親条約付録下田条約が締結された了仙寺。本堂内にペリー提督の軍事修練の図が飾ってある。柱に”和親友好”の文字も。

途中でこんな碑が。吉田松陰投宿の跡。松蔭は国禁を犯して、黒船に乗り込もうと下田に来た。結局、願い果たせず、自首して死罪となる。帰ってから司馬遼太郎の”世に棲む日々”の”下田”を読み返してみる。黒船を追って、保土ヶ谷を出て、鎌倉に一泊(たぶん伯父が住職の瑞泉寺泊だろう)、藤沢、小田原を経て、下田へ。弁天島に身を潜め、小舟を盗んで、黒船へ。しかし、条約を結んだばかりで、法を犯すことはできないと追い返される。

宝福寺に龍馬の碑もあった。”龍馬飛翔の地”という。説明を読むと、たしたことではなかった。勝海舟が土佐藩主山内容堂に龍馬の脱藩の許しを請い、認められたというものだった。この日から龍馬が”罪人”でなくなったということだった。

宝福寺境内の、ハリスにつかえた唐人お吉のお墓にお参りした。となりに質素なお墓もあるが、それが元々のお墓らしい。記念館も見学。十代のお吉さんの写真、とてもきれいだった。

開港後、初代アメリカ総領事館となった玉泉寺。

この部屋がハリスの執務室になった。

牛乳の碑。日本最初の牛乳はここでつくられた。境内の外人墓地も日本初。横浜が何でも一番かと思っていましたが、そうではなかった。

黒船に乗って、下田港巡りをした。船の名前は本物の黒船と同じ”サスケハナ”。

紫陽花が咲き乱れる下田公園内の開国記念碑。 ペリーとハリスの言葉が刻まれている。カーター大統領も現職中、訪れた。別のところにカーターの胸像も。そこまでしなくても(笑)。

海岸にはペリー上陸の碑。

ペリーロードにはなまこ壁と伊豆石の古い民家がいくつも。


日米和親条約付録下田条約が締結された了仙寺。本堂内にペリー提督の軍事修練の図が飾ってある。柱に”和親友好”の文字も。

途中でこんな碑が。吉田松陰投宿の跡。松蔭は国禁を犯して、黒船に乗り込もうと下田に来た。結局、願い果たせず、自首して死罪となる。帰ってから司馬遼太郎の”世に棲む日々”の”下田”を読み返してみる。黒船を追って、保土ヶ谷を出て、鎌倉に一泊(たぶん伯父が住職の瑞泉寺泊だろう)、藤沢、小田原を経て、下田へ。弁天島に身を潜め、小舟を盗んで、黒船へ。しかし、条約を結んだばかりで、法を犯すことはできないと追い返される。

宝福寺に龍馬の碑もあった。”龍馬飛翔の地”という。説明を読むと、たしたことではなかった。勝海舟が土佐藩主山内容堂に龍馬の脱藩の許しを請い、認められたというものだった。この日から龍馬が”罪人”でなくなったということだった。

宝福寺境内の、ハリスにつかえた唐人お吉のお墓にお参りした。となりに質素なお墓もあるが、それが元々のお墓らしい。記念館も見学。十代のお吉さんの写真、とてもきれいだった。

開港後、初代アメリカ総領事館となった玉泉寺。

この部屋がハリスの執務室になった。

牛乳の碑。日本最初の牛乳はここでつくられた。境内の外人墓地も日本初。横浜が何でも一番かと思っていましたが、そうではなかった。

黒船に乗って、下田港巡りをした。船の名前は本物の黒船と同じ”サスケハナ”。
