気ままに

大船での気ままな生活日誌

ユトリロ展 横浜高島屋

2013-10-02 10:45:23 | Weblog
もう、10月。この展覧会も9月いっぱいだったから、もう終わっている。ユトリロの作品は、いろいろな美術館でよく観ているが、こうした回顧展をみるのは初めてだったかもしれない。

昨年の春、パリに10日間ほど滞在し、モンマルトル辺りも歩いているので、この展覧会で、その見慣れた風景に出会うことができ、とても楽しかった。それだけ、ユトリロの作品にはモンマルトルの街角の絵が多いということだ。それに、どこかの美術館でもみたような、という景色も多い。それもそのはず、ちらしの表絵に採用された、キャバレー、”ラバン・アジル”(はね兎)は、ユトリロのお気に入りで、何と400点も描いているそうだ。この展覧会でも、4,5点はあったようだ。だから、サンリュスティーク通りにしても、サクレクール寺院にしても、ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ノートルダム寺院も、生涯に渡って、何枚も描きつづけている。

ラバン・アジルは、現在もシャンソン酒場として営業しているが、建物はユトリロ時代の面影をつよく残している。とても雰囲気のある建物なので、まず、ユトリロの絵と現在の建物を並べてみよう。




サクレクール寺院のみえるこの小路は、サンリュスティーク通り。これもユトリロがよく描いている。


白壁の建物のこの通りもよくモチーフに。


雪のノルマン通り(モンマルトル)


さて、回顧展であるので、ユトリロの人生のエピソードが所々で紹介されている。

子供のころ、祖母に預けられて育った。おばあちゃんはワイン好きで、毎晩、子供のユトリロにも飲ませた。そのせいか、成人して、アル中で9回も入退院を繰り返したという。おばあちゃんのせいか。

ユトリロの父親は誰なのか、判明していない。恋多き母親で、3人の候補が挙がっている。そのほかにも、ロートレック、ドガ、ルノアールともつきあっていた。母親の名はヴァラドンでモデルになったり、自身も画家だった。

ヴァラドンは18歳のとき、私生児としてユトリロを生み、育てていたが、その後、ムージスと結婚(1896)、パリのコトル通りに住む。12才のユトリロは前述の祖母に預けられる。1903年、パリの郊外、モンマニーに一家は移るが、そのとき19歳のユトリロも一緒に住むようになる。彼は、すでにアル中になっていて、治療を受け、対症療法として絵を描き始めていた。この頃から1908年までをモンマニーの時代と呼ぶ。モンマニーの風景画も多い。

モンマニーの3本の通り。


ヴァラドンは、1909年にムージスと離婚。ユトリロ(25歳)より3歳年下の画家と同棲し、一家はパリに戻る。ユトリロは、入退院を繰り返しながらも作品を描きつづける。この1910年代の前半は、傑作を量産した白の時代と呼ばれる。それ以降も、酒浸りの日々ではあるが、1920年代以降の色彩の時代に入っていく。1919年、35才のときの個展が大好評で、華々しい脚光を浴びる。その後、作品の評価は高まる一方で、勲章まで授与されるまでになる。49歳のときリヨンで洗礼を受け、後年、信仰に深くのめりこむ。教会を多く描くようになる。

これはパリから20キロほどのドゥイユ村の教会


さて、展示も終盤にかかる辺りに、ユトリロらしからぬ花瓶の花の絵がある。その横に説明文があった。ある日、ユトリロの作品のコレクターでもあるベルギーの旧家のご夫妻が訪ねてきた。そのとき、奥さんに花の絵を贈った。その後、1935年、未亡人となった奥さんと結婚することになったのだ。その後も、奥さんのために、いくつも花の絵を描いて贈ったらしい。この絵もそのひとつ。ユトリロの、珍しく華やいだ心が垣間見える絵だ。

青い花瓶の花束(1936)


1955年、71歳の生涯を終える。その2日前に描かれた絵。最後の絵もやっぱりモンマルトルの街角であった。シャンソン酒場、ラバン・アジルの前の墓地で眠る。

コルト通り、モンマルトル


モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)と母親シュザンヌ・ヴァラドン。 64歳と46歳。

(二人の写真は、”ユトリロと古きよきパリ/井上輝夫ら/とんぼの本”より)

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