鏡花展の感想文を書き始めていたが、なにせ上原と田沢が所属するレッドソックス対タイガース戦をみながらなので、なかなか筆(正確にはキー打ち)が進まない。お昼の熊本ラーメンを食べている頃に、息詰まる終盤に入った。6回途中、4対2の場面で田沢登場、見事火消、そして7回も登板、打たれるも1点に抑える。そして、ブレスローの中継ぎがあって、8回途中から、上原登板。緊迫した場面であったが、イニングをまたいで、5者連続ぴしゃりの”完全救援”。すごいぞ、上原、ボストンでもお願いしますよ。
田沢
上原
ぼくもごくりと残ったスープを飲み干して、ブログ作成は止め、出掛けた先は、鎌倉と逗子。今日の散歩のテーマは”泉鏡花”。
まんず、逗子の岩殿寺(がんでんじ)を久しぶりに訪ねた。鏡花は明治35年と37年に、病気療養ということで逗子に滞在しているが、その折、散歩がてらここによく参拝した。
逗子滞在中は、台所仕事をお願いするということで神楽坂の元芸妓、すず女も一緒に住んでいた。これを知った、師の紅葉は激怒し、”女を捨てるか、俺を捨てるか”と鏡花に迫った。二人は、泣く泣く離別を決意するが、紅葉が亡くなったあと、結婚し、終生仲良く暮らす。胃腸病に加え、ノーローゼにもなったが、ここ岩殿寺の住職との4年間の交友関係の中で次第に健康を回復する。鏡花夫妻は、お礼として、のちに観音堂の脇に”心”の字の形をした池を寄進した。
観音堂
鏡花の池
山門の脇には鏡花の句碑が。
普門品 ひねもす雨の 桜かな (鏡花)
そして、鎌倉に戻り、訪ねた先は大町を過ぎて材木座にある妙長寺。鏡花は明治6年、金沢に生まれ、北陸英和学校を中退、明治23年に上京、尾崎紅葉の門に入ろうとするが、勇気がなく放浪していた。明治24年に鎌倉に来て、7,8月、妙長寺に滞在。そのあと、入門を果たした。のちに、ここの経験をもとにした小説”星あかり”を発表する。
案内板
鏡花ゆかりの鎌倉と逗子の寺を巡りましたでごわす。
今日の写真は色気がなさすぎる、って?。では、最後にこの方を。どかーん。
鏡花原作”日本橋”のお孝演じる玉三郎さまです。昨年末の日生劇場です。
。。。。。
ようやく鎌倉駅でも。”秋田の行事と小百合”シリーズ#8。
東京、逗子、茅ヶ崎、大船、駒込、上野、辻堂駅につぎ、8番目。ベスト10まで続けます。
そういえば、小百合さまも鏡花作品に出ていましたね。玉三郎監督の”外科室”に。
田沢
上原
ぼくもごくりと残ったスープを飲み干して、ブログ作成は止め、出掛けた先は、鎌倉と逗子。今日の散歩のテーマは”泉鏡花”。
まんず、逗子の岩殿寺(がんでんじ)を久しぶりに訪ねた。鏡花は明治35年と37年に、病気療養ということで逗子に滞在しているが、その折、散歩がてらここによく参拝した。
逗子滞在中は、台所仕事をお願いするということで神楽坂の元芸妓、すず女も一緒に住んでいた。これを知った、師の紅葉は激怒し、”女を捨てるか、俺を捨てるか”と鏡花に迫った。二人は、泣く泣く離別を決意するが、紅葉が亡くなったあと、結婚し、終生仲良く暮らす。胃腸病に加え、ノーローゼにもなったが、ここ岩殿寺の住職との4年間の交友関係の中で次第に健康を回復する。鏡花夫妻は、お礼として、のちに観音堂の脇に”心”の字の形をした池を寄進した。
観音堂
鏡花の池
山門の脇には鏡花の句碑が。
普門品 ひねもす雨の 桜かな (鏡花)
そして、鎌倉に戻り、訪ねた先は大町を過ぎて材木座にある妙長寺。鏡花は明治6年、金沢に生まれ、北陸英和学校を中退、明治23年に上京、尾崎紅葉の門に入ろうとするが、勇気がなく放浪していた。明治24年に鎌倉に来て、7,8月、妙長寺に滞在。そのあと、入門を果たした。のちに、ここの経験をもとにした小説”星あかり”を発表する。
案内板
鏡花ゆかりの鎌倉と逗子の寺を巡りましたでごわす。
今日の写真は色気がなさすぎる、って?。では、最後にこの方を。どかーん。
鏡花原作”日本橋”のお孝演じる玉三郎さまです。昨年末の日生劇場です。
。。。。。
ようやく鎌倉駅でも。”秋田の行事と小百合”シリーズ#8。
東京、逗子、茅ヶ崎、大船、駒込、上野、辻堂駅につぎ、8番目。ベスト10まで続けます。
そういえば、小百合さまも鏡花作品に出ていましたね。玉三郎監督の”外科室”に。