気ままに

大船での気ままな生活日誌

浮世絵が描く鎌倉幕府の物語/個性豊かな御家人たち

2022-01-31 21:39:39 | Weblog

こんばんわ。

大河ドラマ”鎌倉殿の13人”が始まり、地元鎌倉を中心にこれに因んだ展覧会が開かれ始めた。さて、鎌倉殿の13人とは?源頼朝の死後に結成された13人の合議制メンバーのこと。すぐ思い浮かぶ人はほとんどいないと思うが(笑)、北条義時、北条時政、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家。の13人だそうです。

こんな折り、藤沢市浮世絵館で”浮世絵が描く鎌倉幕府の物語/個性豊かな御家人たち”という企画展が開催されているというので出掛けてきた。

企画展の紹介。とくに大河ドラマの13人の家臣団に焦点をしぼっているわけではないが、南関東の御家人たちといえば、13人も含まれているはず。

これに関連した浮世絵が並ぶが、まず、たくさんの御家人が出場している鎌倉右幕下焼香場の図(歌川貞秀)からはじめよう。頼朝は、文治元年(1185)、壇ノ浦で平氏を滅ぼしたのち、鎌倉で父義朝の供養を行った。右幕下とは右近衛大将(頼朝)の居所、あるいは本人を指す尊称のこと。

重臣たちが居並ぶ中で子の万寿丸(頼家)を肩に乗せた頼朝が、左の軒下に描かれている。

御家人たちの横に氏名が書かれているので、横長の浮世絵を左から五分割して拡大して13人を探してみましょう。

まず、梶原景時、比企能員。

(頼朝と万寿丸)のうしろに北条義時。

右に和田義盛。

大江広元が中央に。

最右翼の画面、北条時政と安達(足立)盛長。結局、見つかったのは13人中7人だけ。畠山重忠は13人の中には入っていないことに気づいた。

もうひとつ大勢の家来衆があつまっている浮世絵、右大将頼朝公相撲御覧図(歌川国芳)。相撲は神事として古代から催されていたが、頼朝も臨席して相撲人や武士に相撲を取らせたという。作品では棟上には、御家人たち34名の名札が掲げられている。長居の大力士長居は、当時天下無双と名高かった力士。右の本田次郎近常は、畠山重忠の郎党。

棟上げの御家人たちの名札を拡大して見てみましょう。鎌倉殿の13人のうち、ここの載せてあるのは、5名の武将だけだった。北条義時、北条時政、安達盛長、和田義盛、大江広元の5名。いずれも先の家来衆で、重要人物であることがわかる。

では、ほかの源平合戦の名場面などの浮世絵を見てみよう

市川團十郎演芸100番 文学上人(豊原国周)。大河ドラマでは猿之助演じる文覚(もんがく)上人が早速、現れましたね。父、義朝の頭蓋骨を差し出し、頼朝に決起を促す。この浮世絵と似た風情(笑)。

猿之助の文覚上人。

頼信忠常 大椎城水攻之図(歌川貞秀(橋本 貞秀))長元元年、平忠常が安房国府を襲撃し(平家の)国司を殺害した。平忠常の乱。作品の詞書によれば、源頼信が追捕使として派遣され、城を水攻めして勝利を得た。これを機に関東の平氏の多くが頼信の配下に下り、源氏が東国で勢力を広げる契機となったと言われている。

大日本名将鑑 源頼朝(月岡芳年)芳年の「大日本名将鑑」は、神話時代から江戸時代初期までの、将軍・英雄・戦国大名などの「名将」全51点の浮世絵からなるシリーズ物。その一つ。頼朝が由比ガ浜で千羽の鶴を解き放ったとされる放生会の場面が描かれている。

石橋山伏木隠 大場三郎景親(歌川 国芳)有名な石橋山の合戦のエピソード、”頼朝の伏木隠れ”。頼朝が石橋山の合戦に敗れた後、山中の伏木に隠れているのを、捜索していた(当時、平家方の)梶原景時が姿を見つけたが、味方には「だれもいない」と告げやりすごし、頼朝を助けたというもの。ただ本作では、梶原景時ではなく、平家方の大将格である大庭景親が大きく描かれ、その下の洞穴に源頼朝卿らが潜んでいるさまが描かれている。画中の左下には、頼朝に付き従って洞穴に隠れた武将の名が記されている。(安達)藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義真(実)、新開次郎忠氏、土肥次郎実平、土肥遠平。”13人メンバーは安達盛長のみ。

ぼくはこの場面を描いた前田青邨の”洞穴の頼朝”(重文)が好き。大倉集古館所蔵。

和田義盛一門九十三騎大磯におゐて三日三夜宴を催す折から小林朝比奈義秀曽我五郎時宗が血気にはやるを止て互に力量をあらはす図(歌川国芳)表題の宴は、建久4年(1193)に頼朝が行った富士の巻狩りにあたっての祝いの宴。巻狩りを前に血気にはやる曽我五郎時宗(左手、障子の手前)と、右手に座る十郎祐成とを対照的に描いている。中央手前に座るのが、和田義盛の子、小林朝比奈義秀。義秀の左には、大磯廓の遊女、化粧坂の少将。右には同じく遊女で十郎祐成の妾、虎御前が描かれている。

建保元夏五月 和田大合戦(歌川芳員)頼朝の死後、鎌倉幕府は13人の御家人等による合議制となったが、正治元年(1199)に梶原景時が弾劾され翌年死去。建仁3年(1203)に比企能員が比企の乱を起こして失脚するなど、合議制が崩れていき、ついに侍所別当であった和田義盛も執権北条義時と不和が生じて、和田合戦へ。義盛は戦死し、一族は滅亡した。

勇魁三十六合戦 五(梶原景季 畠山重忠 佐々木高綱 太子小橋太)(歌川国芳)古今の合戦のうち36件を選んで歌川国芳が描いたシリーズの1枚。これは、有名な宇治川の先陣争い。木曾義仲と源義経との間で行われた合戦。その中で、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いのエピソードがよく知られている。平家物語でも宇治川先陣が、屈指の人気場面。”ころは睦月二十日あまりのことなれば・・・、五百余騎ひしひしと轡を並ぶるところに、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり”わくわくする場面。大河ではどうなるか。ただ、父親の梶原景時(獅童)は配役が決まっているが、景季はまだ不明なので、この場面はないかも知れない。

佐々木高綱(見寺剛)

見立武者六歌仙(歌川国芳)それぞれ、僧正遍昭を源三位頼政(右上)、文屋康秀を平忠度(右下)、小野小町を建礼門院(中央上)、在原業平を源実朝(中央下)、大友黒主を源頼朝(左上)、喜撰法師に蓮生坊(左下)の六歌仙に見立てていて、源平の戦いの物語が下敷きになっているようだ。

歌留多あわせ 鎌蔵武勇六家仙(作者不詳)鎌倉時代の武将を六歌仙に見立てて風刺した戯画。各人の隣にそれぞれ掲げられた札の文言には、彼らの歴史的な状況が皮肉を交えて書かれている。幕末に日本で起きた革命のさなかにおける諸勢力も暗示されているようだ。北条時政、大江広元、義経、実朝、政子、江間小四郎が描かれてる。

鎌倉殿の十三人とはいっても、みな有名人とはいいがたく、江戸時代でも浮世絵に描かれるのは限られているようだ。北条義時、北条時政、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家、の13人のうち、果たして、現代の日本人に受け入れられるのは、何人か(笑)。


本展は写真撮影可能ですべてカメラに収めてあるが、やはり不鮮明なところがあるので、一部、ホームページの写真を使わせてもらった。

では、おやすみなさい。

いい夢を。


木菟図(古径)

コメント (2)
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