goo blog サービス終了のお知らせ 

日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

今年もよろしくお願いいたします

2024-01-06 21:04:17 | 悲しい事

1月2日(火)

元旦の夕方、
臨時ニュースで能登半島地震の速報が飛び込んできた。

アナウンサーの 避難を呼びかける
鬼気迫る叫びに近い声で繰り返される警報に

三陸沖の地震、津波の様子が思い出され、
祈りながらテレビを見ていた。

 

今夜は昨日の残りをお腹に入れ、
全国の人達がそうであったと思われるが、
新しい年を祝うという気持ちはなく、

ずっとニュースに見入っていた。

最初の内、山形の地名も出ていたので、
新庄の夫の実家に帰省している娘たちや、親戚の方々、
ブロ友のかこちゃんご一家のことも心配で
何も手に付かなかった。

娘から「すごく大きな揺れでとっても怖かったけれど、
こちらは大丈夫」と

連絡が入ったときには、本当に胸をなで下ろした。

 

少しずつ状況が現れて、
「きっとあれだけの放送だったから、
ほとんどの方達が逃げ延びたに違いない」

という思いとは裏腹に、予想以上の被害の大きさに驚いた。

確か12~3年前に輪島に行き、
朝市通りも歩いた覚えがあるが、

全て火事で燃えてしまったという。

本当にお気の毒で、お気の毒で、
今、こうして生きて家族と一緒にいられることは
当たり前のことではないと肝に銘じた。

行方不明の方達が
一刻も早くご家族の元にお帰りになりますように・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナ  頑張って!

2022-03-04 23:27:21 | 悲しい事

毎日、ニュースを見る度、怒りと哀れさに涙が溢れる。
ロシアがウクライナに侵攻して1週間。

誰か、あの狂った男の残虐な所業を止めて!
こんな非人道なことは許されない!

ロシアに対する包囲網が徐々に狭められ
国連を中心に始まったロシア非難が
良識あるロシアの国民も含めて
世界を一つにまとめようとしているが、
核の使用もチラつかせて裸の王様は
一体どこまで上り詰めようとしているのか、

プーチンが諦めれば
誰も望まない戦争が終わるのに・・・・


2011年9月14日、私はその日、スイスのベルンにいた。

近くの広場から賑やかな音楽が聞こえてきて、
近くまで行くと大きな特設の舞台の中で
美しい若い男性や女性が踊り、歌い、寸劇をしていた。

その周りで多分40~50代の女性達が一緒に踊り、歌い、
途中で「ウクライナッ・ウクライナッ」と声を掛ける。

 

私はどういう人達かどういう踊りなのか、全く分からないのに、
見ている内に涙が溢れ落ちて止まらなくなってしまった。

音楽が途絶えると、踊っていた人達が私の側に寄ってきて、
「なぜ泣いているの?どこから来たの?」と私を抱きしめて下さった。

歌の意味も踊りの意味も分からないのに
勝手に「この女性達は祖国を離れてスイスに住んでいて、
昔、若いときに同じように歌い、踊っていたのだろう、
きっと祖国に帰りたい、ウクライナから来た人達の
力になってあげたいと、あんなに懸命に応援をしているのだろう・・・」
と思っている内にこんな状態になってしまったのだ。

「日本から旅行で来た」とは言えたものの、
妄想の部分は説明できず「音楽も踊りもすばらしい
大好きです。」と嘘でごまかした。

そして、別れるときに、小さな国旗までいただいた。


離れて見ていた仲間達に

「テレビカメラが映していたから
きっと今夜のウクライナのニュースで流れるよ。」
と冷やかされた。

ああ、あの方達の国がこんなことに・・・

もし、私が魔法を使えるならば、
プーチンの頭の中に一発!パーン

(あっ、私の考えは間違っていた。今すぐ撤退して、
世界中の人に謝まって、辞任しなければ!)と考える
弾を打ってやりたい。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

納骨式

2022-01-30 00:20:56 | 悲しい事

1月23日(日)

このところ、日本海側では豪雪が、
関東地方でも毎日底冷えのする寒い日が続いている。

昨年11月4日の早朝に亡くなった義姉の納骨式に参列するため、
横浜の日野公園墓地に夫と共に出掛けた。

義姉の葬儀の時はコロナが少し落ち着き始めた頃で、
多くの人達の気が緩んだのか、道路の渋滞がひどくて、
普段なら1時間半程で行ける所なのだが、
3時間も掛かり、危うく遅刻するところだった。

そして今日はオミクロン株の増加で、陽性者が急激に増えたせいか
道路はスイスイ・・・1時間でお墓に着いた。

そのようなわけで、出席者が11人、
会食も控え、寂しいお式だった。

記念に、と写真も撮ったのだが、
「ブログにお墓の写真を出すのはやめなさい。」
と言う夫の言葉でボツ。


代わりに・・・

すぐお隣のブロックに偉大な歌手美空ひばりさんのお墓があり、
1989年、享年52歳で亡くなられた後、
毎年、お命日には観光バスが5台程連なり、
お参りの方達が大勢いらしていたが、
30年を過ぎた最近は、チラホラ見えるだけとのこと。

数年前までは、時々通りかかると、ファンの方々が我々にもお線香を手渡し、
「どうぞ参ってあげて下さい。」と声を掛けて下さった。
いつもたくさんの花が飾られていて、
皆さんでお守りしている様子だった。

今は寂しいが、それでも丁寧に清掃され、
美しい花が飾られているお墓の前で、特に知り合いでもないのに
私達は自然に手を合わせ冥福をお祈りしている。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しい別れ

2021-11-23 22:44:18 | 悲しい事

11月12日(金)

11月の4日朝方、夫の兄嫁が亡くなった。

長い闘病生活の末のお迎えで、
どんなにか辛い思いをされたと思うのだが、

9月の半ば、電話をいただいたときも、はっきりとした
元気そうな声でしばらくおしゃべりを楽しんだので、
信じられなかった。

私達が結婚をしたとき、長兄夫婦は名古屋に転勤中だった。
そして私達と同時期に結婚した次兄夫婦もすぐに西宮に転勤。

それで、末っ子の夫と姑の住む大田区久が原の
実家に私が同居することになった。

母は明治生まれのとても厳格な、
それでいてとても優しい人だった。

二人の義姉の実家は大田区の千束で近くだったが、
お正月やお盆に帰省したとき、
上の姉はまず久が原に帰ってきて、家族皆で一泊をして、
次の朝、姑に「これから千束に行かせていただきます。」
と、きちんと挨拶をしてから自分の実家に戻り、
また、名古屋に帰るときも同じように
こちらで一泊をしてから出掛けていた。

私はこの様子を見ていて、この義姉のするようにしていたら
間違いはないといつも尊敬していたので、
転勤から戻って横浜に住まいを定めたときにも、
家族でよく長兄の家に遊びに行っていた。
兄の家庭は男の子二人と女の子、我が家は女の子二人で、
従兄弟同士仲良くしてもらっていたので、

横浜の日野にあるお墓参りの帰りにはよく訪ねていたのだが、
義姉が輸血を受けたことで体調を崩し、
子供達もそれぞれ自立し、独立をしてからは
それぞれが忙しくなり、ましてコロナが発生してからは、
お互いに気遣いながら、避けていた。

一番下の女の子が仕事をしながら、母親の面倒を見ていたので
それはそれは大変なことと思いながらも、
いつもごめんねと謝るばかりで、何の役にも立たず、
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

亡くなったその日は、家族や近くに住む親戚が集まり、
病院のベッドサイドでいろいろな話をして、
義姉が「眠くなったのでしばらく寝るわね。」と言って、
その2時間後、朝方の5時頃、全く苦しむこともなく
眠るように逝ったと聞いた。


さて、現在は告別式までにかなり日にちが立て込んでおり、
エンバーミングという技術で美しく保たれた義姉に会ったとき
昔のままで眠ったような美しい顔に、心の中で話しかけながら
しばらくその場を動くことができなかった。

長兄が逝って丁度15年、その時の葬儀とは違うが、
子供達もしっかりと育ち、小さかった孫達も成長し、
久しぶりに会った親戚の一人一人とも和やかに話ができ、
「義姉はコロナが落ち着くまで、皆が集まって来てくれる時まで、
待っていてくれたのだ・・・」と思えた。

ただ・・・ずっと泣いていた末娘の寂しさ、辛さを思うと
今も涙が溢れてくる。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2001,9,11  ニューヨーク貿易センタービル爆破事件

2021-09-12 11:40:03 | 悲しい事


数日前からニュースで9.11事件が取り上げられていた。

あれからもう20年が経ったのだと、時の流れの速さに驚き、
あの日のことを鮮明に思い出した。

あの頃はまだブログを書いていなかったので、
記述は残っていないが・・

あの日は夫と二人、イタリアのピサの斜塔で一日遊び、
電車に乗り遅れて、フィレンツェに着いたのが夜の9時頃。
ホテルまでタクシーに乗ろうとして列に並んだら
後続のイタリア在住日本人家族の方が
「大変なことになりましたね、第三次世界大戦に
ならなければいいのですが・・・」と深刻なお顔で言われた。

私達は観光に夢中で何も知らず、よしんば近くのイタリア人が
何か話していても分かるはずもなく、ただただ驚くばかり。

しかも、アメリカでイワンさんに連れて行っていただいて、
ツインタワーに登ったのが5年前・・・
ホテルに入るや否やテレビを付けてずっと映像に見入っていた。

 

その後、普通に観光旅行は続き、丁度、9月の15日頃だったか、
スイスのグリンデルワルトに宿泊している時、
旅行社から「9・11事件の影響でアメリカ、その他の国の
旅行者のキャンセルが相次ぎ、
あちこちのホテルが一時閉鎖に追い込まれ、
あなた方の泊まるホテルもしばらく利用出来なくなった。
料金はそのままでよいので替わってもらいたい。」という連絡が入った。

同じスイスのツェルマット、そのホテルがここ。
 ザイラー・モン・セルヴァン




同じ系列の4つ星ホテルから、5つ星ホテルへ替わることになり、
駅前でステキな馬車に乗せられ、
すばらしいホテルに案内されたのであった。

今まで経験をしたことのない「ウエルカムパーティ」、
毎週土曜日の夕方にパーティがあるから出席して下さいと言われ、
参加したのはよいが、
ドレスアップした婦人や紳士達の中で、オロオロ。
しかし、さすが支配人は日本に来たことのある人で、
上手な接客ぶりに私も徐々に落ち着くことが出来た。
他にも、私達と同じような立場の日本人が数人、
やはり普段着で出席していた。

アメリカのツインタワー爆破事件が、
こんなに遠いヨーロッパの小さな街にも
大きな影響を与えていたのだ。

 

詳細が分かったのは帰国後。
邦人24名を含め2977人の尊い命が奪われたことが分かったのは、
さらにずっと後のことだった。

最近、その後の片付けの際に亡くなられた方達、
怪我を負って不自由な生活を強いられている方達、
癌を患っている多くの警察官、
心因性の疾患を抱え社会復帰ができないでいる方達、
その数は10万人以上と聞いた。

改めて、皆様のご冥福と一日も早いご回復をお祈りいたします。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする